2024年度 主日礼拝 説教抄録  
    
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                 永眠者記念日礼拝  説教要約

                    日本基督教団 茅ケ崎堤伝道所
                    
2024年11月3日


          聖書  ルカによる福音書 10章25~37節


25 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。
 「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」

26 イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、

27 彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を
  愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」

28 イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」

29 しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。


30 イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。
  追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。

31 ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。

32 同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。

33 ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、

34 近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。

35 そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。
  『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』

36 さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」

37 律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」
  そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」





            説教 「祈りから始まる隣人愛」 要約      

                          三原 信惠 牧師
① 聖徒の日・永眠者記念日
 今日、私たちは、先に天に召された親しい友、愛する親や兄弟姉妹のことを思いつつ集まっています。ある姉妹が、ご自分の洗礼のことを「頭で理解して受洗するのではなく、ただ神様にすべてを委ねて信じるという素朴な信仰であったように思う」とおっしゃっておられましたが、ただ神さまに全てを委ねて信じる、そう言われていることは、バプテスマ、受洗のことだけではなく、死という人の手の及ばない重い現実を、私たちが受け入れる時にとても大切なことのように思います。私たちは、困難な局面、その最たるものは、ご自分の死だと思いますけれども、私たちが困難な局面に直面しても、頭で理解して、それから何とかその事態を受け入れようとします。それが人間の人間たる所以であると私たちは思います。ドイツ語で動物の死はフェアエンデと言い、人間の死はシュテルべンと言って区別しています。人間の死には生命の終焉を自覚しての死があります。けれど動物の死の場合には肉体が衰弱したらそれで終わりです。しかし私たち人間の死はそうではありません。
② 私たちの国籍は天にある
 「天にある」(ヒュパルケイ)と訳されているギリシャ語の聖書を見ましたら、「~にある」と私たちの聖書で訳されていますが、これはisとかareというBe動詞ではありませんでした。また「存在している」とか「与っている」という意味の言葉でもないのです。ヒュポというのは「何々の影響のもとに」という接頭語とアルコー「始まる」「開始する」という言葉が合わされた言葉が用いられていました。国籍(ポリテューマー)という言葉も「国籍」というより「共同体」とか、「交わりの群れ」という意味なのです。あえて意訳しますと、「私たちの共同体は、天の影響を受けている」「神様の御心の影響を、ご支配の影響を受けている」「私どもの共同体は、天の影響が始まっている」という意味になると思います。私たちは決して一人ではない。信仰の目でみる時、甦りのイエス様のおられる所、そこに天国、神の国が始まっている。決して孤立した死ではないのです。そういう孤立した死を私たちは迎えてはならないし又、身近な愛する者たちに迎えさせてはならないと思います。
③ 祈りから始まる隣人愛
 今朝の「善いサマリア人のたとえ話」は、私たちの先入観に対する警告と言えるでしょう。どこかで愛すべき人、関わるべき人とそうでない人とを分けて生きようとしている私たちです。ここに出てくる祭司とレビ人は律法に基づいて愛する人を決めていたのでした。彼らは律法に従おうとする熱意のあまり、追いはぎに襲われた人を助けることができなかったのです。愛さなくてよい人だと思ったのでしょう。しかしサマリア人は律法の枠にとらわれない人でした。律法に従って愛そうなどと考えたのではありません。彼が助けた理由は「その人を見て憐れに思い」(33節)です。ただかわいそうで心配で傷ついているのを見ていられなかったから手を差し伸べました。その人が神様に愛されていることを受け止めていたから助けたのです。結びの「行って、あなたも同じようにしなさい」(37節)というイエス様の言葉は私たちの愛が利己的で限界のあるものであることを示し、それを超えることを勧めます。無償の愛で愛して下さる御方に出会い、その愛を受け取ることによって、私たちもその愛に生きる者へと造りかえられていきます。そうは言っても、倒れている人を前にしり込みしてしまうこともあるかもしれません。しかし、あまり難しく考えず、その時その時、できる限りのことを精一杯行う者になりたいのです。そのために神様に祈り求める者になりましょう。


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 更新 : 2024. 10. 31  by mn

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