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日本キリスト教団 茅ケ崎堤伝道所 週 報
聖霊降臨節第15主日礼拝
2024年8月25日 午前10時30分~
司 式 礼 拝 奉 仕 者
奏 楽 ヒムプレーヤー
前 奏 (黙 祷)
招 詞 司式者
頌 栄 (真理は主イエス・キリスト) 一 同
交 読 詩篇81篇 一 同
聖 書 マタイによる福音書 25章31~46節
(新) p. 50
祈 祷 司式者
讃 美 歌 21-451番 一 同
使徒信条 21-93番( 4-A ) 一 同
讃 美 歌 21-470番 一 同
説 教 「精一杯を、それぞれに」 牧 師
祈 祷 牧 師
讃 美 歌 21-563番 一 同
献 金 ー困難にある人々への連帯を祈りつつー
感 謝 献金奉仕者
主 の 祈 21-93番 ( 5-A ) 一 同
讃 美 歌 21-91番 一 同
祝 祷 牧 師
後 奏 (黙 祷) ヒムプレーヤー
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説教要約 印刷用PDF
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聖霊降臨節第15主日礼拝 説教要約
聖書 マタイによる福音書 25章31~46節
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31 「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、
その栄光の座に着く。
32 そして、すべての国の民がその前に集められると、 羊飼いが羊と山羊を
分けるように、彼らをより分け、
33 羊を右に、山羊を左に置く。
34 そこで、王は右側にいる人たちに言う。
『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時から
お前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。
35 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、 のどが渇いていたとき
に飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、
36 裸のときに着せ、病気のときに見舞い、
牢にいたときに 訪ねてくれたからだ。』
37 すると、正しい人たちが王に答える。
『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、
のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。
38 いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、 裸でおられるのを見て
お着せしたでしょうか。
39 いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、
お訪ねしたでしょうか。』
40 そこで、王は答える。
『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にした
のは、わたしにしてくれたことなのである。』
41 それから、王は左側にいる人たちにも言う。
『呪われた者ども、わたしから離れ去り、 悪魔とその手下のために用意
してある永遠の火に入れ。
42 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、
のどが渇いたときに飲ませず、
43 旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、 病気のとき、
牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』
44 すると、彼らも答える。
『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、
裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、
お世話をしなかったでしょうか。』
45 そこで、王は答える。
『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、
わたしにしてくれなかったことなのである。』
46 こうして、この者どもは永遠の罰を受け、 正しい人たちは永遠の命に
あずかるのである。」
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説教「精一杯を、それぞれに」要約
① 最後の審判のたとえ話
この聖書箇所は、キリストの招きに従う事の大切さが強調されています。そして、隣人・寄留者を兄弟姉妹とし、神の国のために共に働く事が説かれています。31節の「人の子」とはイエス様の事を指していますから、この箇所は「イエスに対して行ったか、行わなかったか」が語られている事になります。「羊飼いが羊と山羊を分ける」(32節)のは、昼間は羊と山羊を一緒に放牧しているのですが、夜には寒さを嫌う山羊を別に分けて洞穴や小屋に、逆に、新鮮な空気を必要とする羊を屋外の囲いの中に入れていた習慣が元になっています。ですから、羊=良い、山羊=良くないと単純に比較しているわけではありません。分けられた一方の人たちは「祝福された人たち」(34節)と呼びかけられ、もう一方の人たちは「呪われた者ども」(41節)と呼びかけられています。この二つの間には大きな違いがあります。前者は「困っている時に手を差し伸べた人たち」(35~36節)、後者は「困っている時に無視した人たち」(42~43節)です。あくまでも「イエス様に対して」という基準です。
② いと小さい者と共に生きる私たち
羊と山羊のたとえは、最後の審判の時の様子がパノラマ的に記されているので、救われる羊と滅びに入る山羊といったように二者択一的に理解しがちですが、そうではありません。このたとえは、私一人に向けられている問い、生き方への問いです。そう自覚して読めば、終末的に生きていくようにとのイエスのお声が私たちの心に響いてくるのではないでしょうか。自分一人が救われるために生きるのではなく、隣人と共に救われることを願って生きていくようにとの招きがこのたとえにはあります。終末という言葉は、元来キリスト教用語で、人類の歴史と世界には、終わりがあり、そこで「最後の審判」があるというキリスト教の思想です。但し、この思想は、ただ悲観的なものではなく、「終わり」という英語の「end」には「目的」という意味があるように、「最後の審判」を目指して、私たちの人生を、日々の生活を、着実に希望を持って生きる生き方を生み出すものです。「自分勝手に生きるか、隣人と共に生きるか」のどちらの生き方をしたらよいかが問われているのです。
③ 精一杯を、それぞれに
「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにした事なのである」(40節)。このたとえは、トルストイの「愛のあるところに神ありー 靴屋のマルチン」のテーマになっているように、飢えていた時に食べさせ、喉が渇いていた時に飲ませ、旅をしていた時に宿を貸し、裸の時に着せ、病気の時に見舞い、牢にいた時に訪ねてくれた(25:35,36)。そうした対象になっている方々に仕える事は、神様に仕えた事になるというわけです。これはたとえ話ですから、もっと大きな視点で解釈すれば、二つに分類できます。第一は、いと小さき人とは、たとえの中の旅人を例にとれば、聖書では、全人類が旅人です(へブル11:13)。私たち人類は、同じ地球号という船に乗り合わせている旅人です。全ての人がいと小さき人であるという事が前提にある生き方をするようにとの勧めです。渡辺和子シスターが提唱している「置かれた所で咲きなさい」というように遣わされ立てられている各自の国、地域、場所、職場、学び舎、家庭に根を下ろして共に生きて行く事が勧められています。第二のいと小さき人々とは、小さくされている人々の事です。「できる」「できない」にこだわるのではなく、それぞれが「精一杯を、それぞれに」模索しつつ、関わって参りましょう!
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2024年度 年間聖句
「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、
成長させて下さったのは神です。」
(Ⅰコリント3章6節)
今週の祈り
・東日本大震災の被災者・被災教会のために。
・病や困難の中にある友のために。
・松山教会と上島一高、山下茂雄牧師のために。
本日の集会
(感染予防対策を講じながら行います)
・ 9:40~10:10 教会養育の時間
・10:20~10:30 礼拝準備祈祷会
・10:30~11:30 主日礼拝
・11:30~11:40 讃美歌練習
・11:40~11:50 聖書通読:民数記30章(旧)p.266
・11:50~ お茶の会 どなたでもどうぞ!
今週の集会
・聖研祈祷会 8月29日(木) 10:30-11:30
マタイ福音書16章13~28節 (新)p.31
(信徒の友「日毎の糧」欄に載っている聖書の御
言葉に耳を傾けた後、”祈りに覚える教会”と
してこの日紹介されている松山教会のお働きを
覚えて祈りを合わせます。)
次主日のご案内
■聖霊降臨節第16主日 9月1日(日)
・教会養育の時間 午前 9:40~10:10
・礼拝準備祈祷会 午前10:20~10:30
・主日礼拝 午前10:30~11:45
司 式 : 細井伝道師
交 読 : 詩編 82編
聖 書 : マタイによる福音書10章28~31節
(新)p.18
説 教 : 「人々を恐れるな」 三原 牧師
配 餐 : 細井伝道師
献 金 : 献金奉仕者
奏 楽 : 奏楽奉仕者
讃美歌 : 21-463(わが行くみち)
21-563(ここに私はいます)
21-81(主の食卓を囲み)
・礼拝後の集会
讃美歌練習 担当:奏楽奉仕者
聖書通読 申命記1章 (旧)p.279
お茶の会 どなたでもどうぞ!
「神の恩寵としての試練」
私たちの体は必ず死ぬ存在です。30歳代の若さでもがん
で亡くなるとか、あるいは40歳代でも心筋梗塞で死ぬという
ような事はありますが、私は、そういう身体的な難を免れて
百歳近くまで生きてきました。
しかし、病気をしなかった訳ではありません。小学生の時、
急性腎炎になり、一ヶ月間、学校に行けず自宅療養。治って
からも一年間の運動禁止。母は運動を禁じられた私をかわい
そうに思ってか、ピアノを習わせてくれましたので、十歳の
時からピアノを弾くようになりました。それから礼拝のオル
ガンを弾いたり、聖歌隊の指揮をやったりするようになりま
した。大学生になって一年生を終えたばかりの春休みに肺結
核と胸膜炎になり、結核の化学療法がない時でしたので、八
ヶ月間は高熱が続き、トイレにも行けない程の重症でしたが
一年間自宅療養してしばらく回復することが出来ました。
その間、寝たままで出来ること(レコードを聴き、独学でメ
ロデイーを採譜する練習)をし、回復してからは、ピアノ曲
「ノクターン」を作曲しました。私の97歳の誕生日には、
ビクターからCDを出すことが出来ました。
(日野原重明著『愛とゆるし』より)
新型コロナウイルス感染症対応のため、長らく礼拝は
自室礼拝(ご家庭内での礼拝)を原則としてきましたが、
2020年6月14日より会堂での主日礼拝を再開しました。
すでに「新型コロナウィルス感染防止対策」として周知
されている指針に基づき、できる限りの感染予防対策を
実施しながら主日礼拝を献げています。皆様にはご不便
とご迷惑をお掛け致しますが、ご留意いただきますよう
お願い申し上げます。特に体調のすぐれない方、健康面
に不安を抱えている方には、無理をなさらずに礼拝時刻
に合わせてホームページ上の週報をご覧の上、ご家庭内
で御言葉に聴き、祈りの内にお過ごしくださいますよう
お願い申し上げます。
なお、週報は主日礼拝の前日に週報棚に入れ、FAXを
お持ちの教会員の方にはFAXで週報をお送りいたします。
当日の週報ならびに説教要旨は、主日礼拝の前日までに
ホームページ上で閲覧できるようにいたします。事態の
早期収束を願うと共に、教会員の皆さまはじめ、悲しみ
と困難に直面する世界中の人々のことを覚え、主のみ守
りと支えが豊かにありますようにお祈り申し上げます。
2021.2.7 牧師・三原信惠 |
その他の報告
「新つつみ通信」第6号発行
牧師の巻頭言ほか、被災地訪問の記、教団
伝道交付金を用いた「教会養育」一年の歩み
など、2023年度の茅ヶ崎堤伝道所の活動
を特集して、今年の春に発行しました。
来会される方々にお配りしています。
■ 前向き・肯定的に!
わたしたちの社会がコロナ禍に直面して、4年余りの
月日が経過しました。これまで経験したことのない大き
な災いによって、一日一日を生きること、そして、キリ
スト者にとっては、教会に集って礼拝を献げることが、
決して当たり前のことではないことを学ぶことができま
した。この与えられた時を大切に、意味あるものとして
過ごすために、わたしたち堤伝道所では、2022年1月2日
(日)より「聖書通読」を再開しました。
信仰の原点に帰って、み言葉に聴き、おたがいが担っ
ている試練や痛みを覚えながら、共に祈り合い、支え合
いながら歩みを進め、2022年12月31日をもって旧約聖書
39巻すべての通読を終了いたしました。主の見守りと
導きに感謝するとともに、教会に連なる皆様一人ひとり
の祈りとご奉仕によって支えられたことを思い、心より
感謝申し上げます。
2024年4月1日より、第3回目の聖書通読を始め
ました。どなたでも無理なく通読できるように一日一章
づつ読んでいます。
■ 先週の集会報告
・教会養育 8月18日(日)男1、女2、 計 3名
・主日礼拝 8月18日(日)男4、女6、 計10名
・聖研祈祷会 8月22日(木)男2、女3、 計 5名
■ 献金の報告
【礼拝席上献金】 8月18日(日) 8,550円
※ 個人情報保護の観点から、牧師以外の礼拝奉仕者並びに
献金者の氏名は伏せさせていただきました。ご了承下さい。
当伝道所は、教会内外の多くの方々から献げられた尊い献
金によって支えられています。心より感謝を申し上げます。
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