主日礼拝 説教抄録  2024年度
    
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           聖霊降臨節第15主日礼拝  説教要約

                日本基督教団 茅ケ崎堤伝道所
                   
2024年8月25日


 聖書   マタイによる福音書 25章31~46節
  


31  「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、
   その栄光の座に着く。


32  そして、すべての国の民がその前に集められると、 羊飼いが羊と山羊を
   分けるように、彼らをより分け、

33  羊を右に、山羊を左に置く。


34  そこで、王は右側にいる人たちに言う。
   『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時から
   お前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。


35  お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、 のどが渇いていたとき
   に飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、


36  裸のときに着せ、病気のときに見舞い、
   牢にいたときに 訪ねてくれたからだ。』

37  すると、正しい人たちが王に答える。
   『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、
   のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。

38  いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、 裸でおられるのを見て
   お着せしたでしょうか。

39  いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、
   お訪ねしたでしょうか。』

40  そこで、王は答える。
   『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にした
   のは、わたしにしてくれたことなのである。』

41  それから、王は左側にいる人たちにも言う。
   『呪われた者ども、わたしから離れ去り、 悪魔とその手下のために用意
   してある永遠の火に入れ。

42  お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、
   のどが渇いたときに飲ませず、

43  旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、 病気のとき、
   牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』

44  すると、彼らも答える。
   『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、
   裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、
   お世話をしなかったでしょうか。』

45  そこで、王は答える。
   『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、
   わたしにしてくれなかったことなのである。』

46  こうして、この者どもは永遠の罰を受け、 正しい人たちは永遠の命に
   あずかるのである。」







     説教「精一杯を、それぞれに」 要約

① 最後の審判のたとえ話
 この聖書箇所は、キリストの招きに従う事の大切さが強調されています。そして、隣人・寄留者を兄弟姉妹とし、神の国のために共に働く事が説かれています。31節の「人の子」とはイエス様の事を指していますから、この箇所は「イエスに対して行ったか、行わなかったか」が語られている事になります。「羊飼いが羊と山羊を分ける」(32節)のは、昼間は羊と山羊を一緒に放牧しているのですが、夜には寒さを嫌う山羊を別に分けて洞穴や小屋に、逆に、新鮮な空気を必要とする羊を屋外の囲いの中に入れていた習慣が元になっています。ですから、羊=良い、山羊=良くないと単純に比較しているわけではありません。分けられた一方の人たちは「祝福された人たち」(34節)と呼びかけられ、もう一方の人たちは「呪われた者ども」(41節)と呼びかけられています。この二つの間には大きな違いがあります。前者は「困っている時に手を差し伸べた人たち」(35~36節)、後者は「困っている時に無視した人たち」(42~43節)です。あくまでも「イエス様に対して」という基準です。
② いと小さい者と共に生きる私たち
 羊と山羊のたとえは、最後の審判の時の様子がパノラマ的に記されているので、救われる羊と滅びに入る山羊といったように二者択一的に理解しがちですが、そうではありません。このたとえは、私一人に向けられている問い、生き方への問いです。そう自覚して読めば、終末的に生きていくようにとのイエスのお声が私たちの心に響いてくるのではないでしょうか。自分一人が救われるために生きるのではなく、隣人と共に救われることを願って生きていくようにとの招きがこのたとえにはあります。終末という言葉は、元来キリスト教用語で、人類の歴史と世界には、終わりがあり、そこで「最後の審判」があるというキリスト教の思想です。但し、この思想は、ただ悲観的なものではなく、「終わり」という英語の「end」には「目的」という意味があるように、「最後の審判」を目指して、私たちの人生を、日々の生活を、着実に希望を持って生きる生き方を生み出すものです。「自分勝手に生きるか、隣人と共に生きるか」のどちらの生き方をしたらよいかが問われているのです。
③ 精一杯を、それぞれに       
 「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにした事なのである」(40節)。
このたとえは、トルストイの「愛のあるところに神ありー 靴屋のマルチン」のテーマになっているように、飢えていた時に食べさせ、喉が渇いていた時に飲ませ、旅をしていた時に宿を貸し、裸の時に着せ、病気の時に見舞い、牢にいた時に訪ねてくれた(25:35,36)。そうした対象になっている方々に仕える事は、神様に仕えた事になるというわけです。これはたとえ話ですから、もっと大きな視点で解釈すれば、二つに分類できます。第一は、いと小さき人とは、たとえの中の旅人を例にとれば、聖書では、全人類が旅人です(へブル11:13)。私たち人類は、同じ地球号という船に乗り合わせている旅人です。全ての人がいと小さき人であるという事が前提にある生き方をするようにとの勧めです。渡辺和子シスターが提唱している「置かれた所で咲きなさい」というように遣わされ立てられている各自の国、地域、場所、職場、学び舎、家庭に根を下ろして共に生きて行く事が勧められています。第二のいと小さき人々とは、小さくされている人々の事です。「できる」「できない」にこだわるのではなく、それぞれが「精一杯を、それぞれに」模索しつつ、関わって参りましょう!



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 更新 : 2024. 8. 24  by mn

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