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復活節第5主日礼拝 説教要約
日本基督教団 茅ケ崎堤伝道所
2024年4月28日
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聖書 マタイによる福音書 第5章13~16節
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13 「あなたがたは地の塩である。
だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が
付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、
人々に踏みつけられるだけである。
14 あなたがたは世の光である。
山の上にある町は、隠れることができない。
15 また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。
燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。
16 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。
人々が、あなたがたの立派な行いを見て、
あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」
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説教「ぴりっとかがやいて」 要約
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① あなたがたは地の塩である (13節)
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八つの祝福が語られた後に、イエス様は「あなたたちはどのような存在なのか」、そして「どのように生きていくのか」と迫ります。語られた祝福は聴いて終わりではありません。「あなたがたは地の塩である」と言われます。塩は私たちの生活の必需品です。食べ物に味を付けるというだけでなく、物が腐敗するのを防ぎます。「塩気がなくなれば」という言葉は、原語では「味がなくなる」の他に「愚かにする」というような意味も持っています。味がハッキリしないことを「味がぼやける」というような言い方をします。曖昧になって本来持っている良さをなくす、ということでしょう。更に、塩は清める役割も持っています。塩が本来の役割や働きをなくしたら、ただのザラザラした砂のようです。塩が塩でなくなるというのは、私たちにとって死活問題です。塩分が取れなければ私たちは死んでしまうからです。塩が本来の役割を担わなくなったら、この地は滅びます。たとえ数は少なくても、ピリッと味を利かせ、腐敗を止める塩はこの地になくてはならない存在なのです。
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② あなたがたは世の光である (14節)
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もう一つ、「あなたがたは世の光である」と言われます。これは、私たち自身が光を発している存在だと誇ってよい、ということではありません。そうではなく、キリストのものである私たちがキリストに従って生きる時、「キリストの光」を放つということです。ですから、その光を隠したり、升の下に置いたりしてはならないのです。光を「燭台の上に置く」とは、自分の光や栄誉を輝かすことではありません。イエス様に従って、キリストの光を輝かすことです。その時、その光によって周りが明るく照らされます。「塩」と「世」は、私たちが足をつけて生きる地べたと、宇宙をも示す世界全体を表しています。私たちの足下から始まって、被造世界全体を視野に入れる壮大な広がりの中、自分がどのような役割を負う存在なのかを見つめさせられます。そしてここでは「あなたは」ではなく「あなたがたは」と呼びかけられています。私たちは個々人としてだけではなく、むしろ教会やキリスト者たち全体として「地の塩」であり、「世の光」である、と呼びかけられているのです。
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③ ぴりっとかがやいて |
イエス様は私たちに「地の塩になりなさい」「世の光になりなさい」ではなく、「地の塩である」「世の光である」と宣言されました。私たちは、すでにそのような存在にして頂いているのです。夏期修養会に行った時のことです。夜の食事の後、夜の散歩に出かけました。道は真っ暗、懐中電灯の光が頼りです。「ねえ、懐中電灯を消して、一人ずつ歩いてみない?」「うん、こわいけど、やってみようか」。そこで一人ずつ暗い道を歩きました。怖くて「キャー」と叫んだ人がいました。宿に戻り、明るい部屋に入って、やっとみんな安心しました。暗いのはいやですね。私たちの心も、嫌なことがあったりすると暗くなります。でも、暗い夜でも懐中電灯のような小さな光があれば安心できるように、暗い心の人のそばに光があれば、その人の心が明るくなり、安心することができます。心を照らす光はイエス様です。イエス様の光を受けた私たちは、小さくても明るい光になります。その光で暗くなっている人の心を明るく照らすことが出来ます。でも、塩も光も、しょっぱ過ぎたり、まぶし過ぎてもみんな困ってしまいます。どうしたら≪ぴりっと≫いい味になるか、みんなが明るく≪かがやいて≫いけるか、イエス様によく聴き、考えながら、進むことが大切です。
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