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復活節第2主日礼拝 説教「しっかり立つ木のように」
日本基督教団 茅ケ崎堤伝道所
2024年4月7日
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聖書 詩編 第1編 1~6節
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1 いかに幸いなことか
神に逆らう者の計らいに従って歩まず
罪ある者の道にとどまらず
傲慢な者と共に座らず
2 主の教えを愛し
その教えを昼も夜も口ずさむ人。
3 その人は流れのほとりに植えられた木。
ときが巡り来れば実を結び
葉もしおれることがない。
その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。
4 神に逆らう者はそうではない。
彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。
5 神に逆らう者は裁きに堪えず
罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。
6 神に従う人の道を主は知っていてくださる
神に逆らう者の道は滅びに至る。
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説教「しっかり立つ木のように」 要約
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① いかに幸いなことか(1節)
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詩編は「いかに幸いなことか」という言葉をもって始まります。ここに記されているのは「幸せとはどのようなことか」という解説ではなく、「このように生きている人は幸いだ」という宣言です。詩編の全体がこの宣言で始まっている事に心をとめましょう。ここには二通りの生き方が記されています。一つは、「神に従う」(6節)生き方です。この生き方をする人は「主の教えを愛し その教えを昼も夜も口ずさむ」(2節)と記されています。「主の教え」は、道徳や決められた規則や、神様からの指図ではありません。義務でも私たちを縛るものでもなく、主の教えは私たちを生き生きと生かす神様からの知恵の贈り物です。ですから、教えを愛する事も強制ではありません。主の教えを「愛し」は、聖書協会共同訳では「喜びとし」となっています。主の教えに浸る事は「神に従う人」には喜びなのです。そして「その人は流れのほとりに植えられた木」(3節)です。水辺の木はいつも必要な水分や養分を取り入れることができます。地面の下に根っこをしっかり張っているからです。
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② 私たちの前にある道
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「三匹の子豚」のお話を知っていますか? 一匹目の子豚は、わらでお家を作りました。ところが狼がやって来て、わらのお家は吹き飛ばされてしまいました。二匹目の子豚は、枯れ枝でお家を作りました。ところがやっぱり狼がやって来て、枯れ枝のお家も吹き飛ばされてしまいました。三匹目の子豚は、レンガでお家を作りました。このお家は、狼がどんなに「フーフーのフー」と息を吹きかけても壊れません。狼はあきらめてしまいました。レンガのお家はとっても丈夫です。ちょっと息を吹きかけられたり、風が吹いたりしても壊れません。安心ですね。狼ではなくても、私たちを怖いものや悪いものが襲って来ることがあります。病気とか、事故とか、大好きな人が死んでしまったりするかもしれません。悪いことは私たちの外側からだけ来るのではありません。心の中に、人を憎む気持ちがムクムク湧いてくることがあります。喧嘩をして「あの人、いなくなればいいのに」と思うことがあるかも…。自分だけ良ければいいやと他の人を押しのけているかもしれませんね。
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③ しっかり立つ木のように |
二通りの生き方のもう一つは、「神に逆らう」(1、4~6節)生き方です。神に逆らうとは、悪いことをするということだけを指すのではありません。「神様なんていない」と思って、その代わりに自分が神様のように偉くなってしまうことはどうでしょう。気がついたら自分だけ良ければいいやと他の人を押しのけている。そんなことはないでしょうか。そんな時の私たちは、わらや木のお家みたいです。実の入っていない、空しい「もみ殻」(4節)のように、フーフーのフーで、自分がどこにいるのかわからないくらい吹き飛ばされてしまいます。そんなのいやだなあ。私たちが吹き飛ばされないのは、レンガのお家みたいに、安心できる所にいる時、それは、神様の所にいる時です。神様が教えてくださること、神様の言葉を聴く(身を入れて、耳をそばだててきく)人は、根っこがしっかりはえている木みたいに、ちゃんと立っていることができます。神様の言葉から栄養や水を吸い上げて、良い実がなります。大きくなって、どんな実ががなるか、楽しみですね。その人は、とっても幸いだよ、と聖書は言っています。詩編が語ることは真実です。私たちがどんなときも、聖書の言う、詩編が語る神様に従って生きる、その人のことを神様は見ていてくださっています。
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