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イースター礼拝 説教「もう一度、立ち上がる」
日本基督教団 茅ケ崎堤伝道所
2024年3月31日
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聖書 マタイによる福音書 第28章1~10節
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1 さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアと
もう一人のマリアが、墓を見に行った。
2 すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石を
わきへ転がし、その上に座ったのである。
3 その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。
4 番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。
5 天使は婦人たちに言った。
「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、
6 あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさった
のだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。
7 それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。
『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤ
に行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」
8 婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに
知らせるために走って行った。
9 すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人
たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。
10 イエスは言われた。
「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように
言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」
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主日礼拝説教「もう一度、立ち上がる」 要約
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① 死にて葬られ・・・
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心から敬愛する鈴木一朗牧師が召天されて3年。その1ヶ月後に半沢忠吾さん、半年後に細井良治さん、次年に大谷とし子さん、そして昨年、最も愛しい鈴木澄子先生を天にお送りいたしました。ふだん、私たちは一見平穏な、しかし真実に直面することからはほど遠い生活を送っています。その中で、最愛の者を失って悲しみに暮れる人を訪れた時、私たちはどう「おくやみ」を言ってよいのか途方にくれます。どんなに上手に弔辞を述べてもそれは慰めになりません。また遺族としても、その悲しみを述べることができません。語ることができるようなものは、本当の悲しみではありません。慰めることのできない悲しみ…泣く以外に道はありません。主イエスを失った弟子たちの悲しさや嘆きはまさに泣く以外に方法のないものでした。私たちは家族や友人の死に会った時、復活の主イエスによる慰めをもっていますし、また、励ましと希望を与えられます。しかしその主イエスが死んで、墓の中なのです。慰めの源がないのです。絶望というのはこの日のための言葉です。
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② イエスは死人の中からよみがえり(復活)しました
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「安息日が終わって」(それは土曜日の日没以降)「週の初めの日の明け方」(日曜日の日の出を待って)、マグダラのマリアとヤコブの母マリアとサロメの三人の女性たちが、イエス様のお体に塗るための香料を持って墓に行きました。というのは、イエス様が亡くなられてすぐに安息日に入ってしまったので塗ることが出来なかったからです。ところが、墓の入口をふさいでおいた石が転がっていました。恐る恐る中に入ると、何とそこには見知らぬ白い衣をつけた人が座っているではありませんか。そして、こちらから何も言わないのにしゃべり出しました。「皆さんの探している人は、ここにはおられません」「復活しました」と知らされ、「ガリラヤに先に行くから、ペトロたちは、あとで来るように伝えておくれ」と。三人からこの不思議な話を聞いたペトロは急いで墓に駆けつけて中を調べましたが、あったのはイエス様に巻いていた布だけでした。マリアは先生がいないので墓の外で泣いていたら懐かしいイエス様のお声…「さあ、私のことを弟子たちに言いなさい」と。
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③ もう一度、立ち上がる |
「復活」には「再び立ち上がる」という意味があります。それは、どんなに失敗しても、またやり直すことができる、いつでも新しいスタートをすることができることとつながっています。イエス様の生き方はいつも言葉と行動がつながっていました。それは実際に誰かを励ましたり、新しい生き方に結びつけるためです。それが、神様が愛するということで、十字架と復活によってその愛がたくさん私たちに与えられています。また、イエス様は「恐れることはない」と言います。どんなに小さくてもどんなに不安でも、必ずイエス様が先に歩んで、方向を示してくれますし、たとえ失敗しても、また私たちは神様に励まされて立ち上がることができます。できない理由を探すよりも、どんなに小さくてもできることを始めていく生き方へと、神様は招いておられます。ガリラヤで弟子たちに会おうとされます。傷ついた弟子たちを励まし、もう一度、希望を持って、新しく人生をスタートさせるためです。イエス様は墓を見に行った二人のマリアに対し「おはよう」と声をかけます(9節)。この言葉はもともと「喜びなさい」という意味で、幸せと、心の平安を願う言葉です。十字架には、私たちにとって、とんでもなく大きい神様の愛情がたっぷりと込められています。今も神様は生きていて私たちに進んでいく方向を示しておられます。これが復活のメッセージです。
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