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受難節第5主日礼拝 説教「光の子になるために」
日本基督教団 茅ケ崎堤伝道所
2024年3月24日
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聖書 ヨハネによる福音書 18章1~18節
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1 こう話し終えると、イエスは弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こうへ
出て行かれた。そこには園があり、イエスは弟子たちとその中に入られた。
2 イエスを裏切ろうとしていたユダも、その場所を知っていた。
イエスは、弟子たちと共に度々ここに集まっておられたからである。
3 それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした
下役たちを引き連れて、そこにやって来た。
松明やともし火や武器を手にしていた。
4 イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、
「だれを捜しているのか」と言われた。
5 彼らが「ナザレのイエスだ」と答えると、イエスは「わたしである」と
言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒にいた。
6 イエスが「わたしである」と言われたとき、彼らは後ずさりして、
地に倒れた。
7 そこで、イエスが「だれを捜しているのか」と重ねてお尋ねになると、
彼らは「ナザレのイエスだ」と言った。
8 すると、イエスは言われた。「『わたしである』と言ったではないか。
わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい。」
9 それは、「あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も
失いませんでした」と言われたイエスの言葉が実現するためであった。
10 シモン・ペトロは剣を持っていたので、それを抜いて大祭司の手下に打って
かかり、その右の耳を切り落とした。手下の名はマルコスであった。
11 イエスはペトロに言われた。
「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」
12 そこで一隊の兵士と千人隊長、およびユダヤ人の下役たちは、
イエスを捕らえて縛り、
13 まず、アンナスのところへ連れて行った。彼が、その年の大祭司カイアファ
のしゅうとだったからである。
14 一人の人間が民の代わりに死ぬ方が好都合だと、ユダヤ人たちに
助言したのは、このカイアファであった。
15 シモン・ペトロともう一人の弟子は、イエスに従った。この弟子は大祭司
の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の屋敷の中庭に入ったが、
16 ペトロは門の外に立っていた。大祭司の知り合いである、
そのもう一人の弟子は、出て来て門番の女に話し、ペトロを中に入れた。
17 門番の女中はペトロに言った。「あなたも、あの人の弟子の一人では
ありませんか。」ペトロは、「違う」と言った。
18 僕や下役たちは、寒かったので炭火をおこし、そこに立って火に
あたっていた。ペトロも彼らと一緒に立って、火にあたっていた。
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説教「イエス様は逃げない」 要約
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① 十字架の出来事 |
イエス様の十字架の出来事はここから始まります。イエス様は弟子たちとよく行っていたゲッセマネの園に行きます。沢山の人がイエス様の命を狙っている状況でそこに出かけるのは危険でした。イエス様を裏切った弟子のユダは、沢山の兵士や大祭司の手下を連れてきました。イエス様一人を捕まえるのに、そんなに多くの人を連れて来たことに驚きます。人々は勿論、武器を持っていたでしょう。普通なら怖くなりますがイエス様は前に進んで「誰を捜しているのか」と言います。彼らが「ナザレのイエスだ」と言うと、イエス様は「私である(エゴー・エイミ)」と言います。このやり取りが二回繰り返されます。「私である」という表現は、聖書では神様が「ここにいるよ」と人に伝える時に言う特別な言葉です。著者ヨハネは、ここでハッキリとイエス様は神様だと示しています。更に、その言葉を聞いた兵士たちが倒れてしまうほど、神様の言葉は力強いのです(6節)。そしてイエス様は「私を捜しているのなら、この人々は去らせなさい」と弟子たちを守りました(8節)。
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② イエス様は、逮捕される
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イエス様は弟子たちを逃がして自らは逮捕されます(8節)。そこでペトロともう一人の弟子はひそかに後をつけて行き、大祭司の中庭で炭火にあたって事の成り行きを見ることにしました(15~18節)。もう一人の弟子とは誰でしょう。大祭司の知り合いということはエルサレムに住む金持ちです。私はこのヨハネによる福音書の著者ではないかと思います。彼は顔パスでペトロを中に入れる事ができる人間です。焚火だと火に近づくと熱いですが、炭火だと近く寄り添って暖をとります。だからでしょうか、ペトロは女中、人々、僕らに「お前も弟子ではないのか」(17、25、26節)と言われてしまいます。ここで女の人がペトロを見て「あなたはあのイエスの弟子でしょう?」と聞いてきた時ペトロはとっさに「違う」と嘘をつきます。自分も捕まってしまうと思ったからです。こうして大好きなイエス様のことを三度も裏切ってしまったのです。十字架に立ち向かっていくイエス様の積極的な姿と、結局はイエス様を裏切ってしまうペトロの消極的な姿が対照的に書かれています。
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③ イエス様は逃げない |
今朝の聖書箇所では、武器を持った沢山の人がイエス様をつかまえに来た時、イエス様は逃げませんでした。つかまれば十字架につけられて死んでしまうことがわかっていても、イエス様は逃げませんでした。なぜ、逃げなかったのでしょう? イエス様が逃げなかったのは、神様が私たちを大切にして下さっていることを伝えるためでした。私たちはそんなイエス様の前向きに進んでいく姿にとても励まされます。そしてどんな武器にも負けない、どんな悪いことにもおびえない、強くて優しい神様の言葉を、私たちは今、聖書をとおして聞いています。「わたしである」と言った言葉は、私たちに対する「神様であるわたしがそばにいるから、安心していいよ」というメッセージです。私たちも、ペトロのように、怖がりで、嘘つきで、大切な家族や友達のことを悲しませてしまうことがあります。イエス様は、そのことをよく知っていて、それでも私たちを赦して、抱きしめてくださいます。「わたしである」と言ったイエス様は、いつもあなたと一緒にいるよ、どんな時も離れないよと約束しています。そのしるしが十字架です。十字架には、私たちにとって、とんでもなく大きい神様の愛情がたっぷりと込められています。イエス様を固く信じて、ご一緒しましょう!
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