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受難節第3主日礼拝 説教「どこへも行きません」
日本基督教団 茅ケ崎堤伝道所
2024年3月3日
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聖書 ヨハネによる福音書 6章60~71節
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60 ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。
「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」
61 イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに
気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。
62 それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。
63 命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。
わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。
64 しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」
イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、
御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。
65 そして、言われた。
「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しが
なければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と
言ったのだ。」
66 このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に
歩まなくなった。
67 そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」
と言われた。
68 シモン・ペトロが答えた。
「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。
あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。
69 あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、
また知っています。」
70 すると、イエスは言われた。
「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。
ところが、その中の一人は悪魔だ。」
71 イスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのである。
このユダは、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうと
していた。
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説教「どこへも行きません」 要約
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① 「わたしは命のパンです」 |
皆さんの中で、今日の朝ごはんにパンを食べた人はいますか? 聖書にはイエス様が「わたしは命のパンです」と言ったことが書かれています。ちょっと不思議な言葉ですね。イエス様は私たちの身の回りにあるものを通して、わかりやすく神様の国はどういうものかを伝えようとしました。イエス様が「わたしは命のパンです」と言われたのは、食べ物のパンではなくて、神様の言葉のことです。誰でも、神様の言葉を聞いて、大切にすれば、永遠に生きるということです。食べ物のパンが私たちの体を作るように、イエス様が下さる命のパンは私たちの心を成長させてくれるものです。イエス様は、そんな命のパンを食べる人と、いつも一緒にいるよと約束して下さいました。命のパンは、私たちの目には見えませんが、普通のパンみたいに食べて消えることはありません。ずっと私たちの心の中に生き続ける神様の言葉です。その言葉を味わうことでイエス様ともっとつながることができるのです。でも、このたとえを理解できずに、離れてしまった人が沢山いました。 |
② 「あなたがたも離れて行きたいか」(67節) |
イエス様はこの言葉を、いちばん傍にいる12人の弟子たちに言います。それは、イエス様の言葉を心から<信じるのか、それとも信じないのか>ということを私たちにも問いかけています。目には見えないけれど消えずにずっとあるのがイエス様の言葉です。それが永遠の命の言葉なのです。目に見えないものは信じられないと思えばイエス様から離れることになります。「わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である」(63節)。イエス様は、私たちを無理矢理、引っ張って「さあ、来い! 私から離れるな!」と私たちを何が何でも、イエス様に従わせようとはなさいません。「信じますか? 信じませんか? どちらを選びますか?」と弟子たちに、そして私たちに聞いておられます。弟子たちにこう言った時、イエス様はとても悲しかったんじゃないでしょうか。もし、お友だちがみんな離れてしまったら私たちも悲しくてさびしい気持ちになると思います。弟子たちを代表して、ペトロは答えました、「私たちはどこへも行きません。イエス様を信じます」と。 |
③ どこへも行きません |
ペトロが言っているこの言葉が今朝のメッセージです。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか」(68節)。そこから逃げなければ(立ち帰るのではない)、新たなる主体性を喚起されるような、関係的存在であり得る場を、このテキストは示しています。「だれのところへ行きましょうか」とは逆に言えば、今いる場、主と共にいる場から逃げないということであり、同時にその大切さが身にしみているということです。ペトロの答えのキリスト論的概念(様々な伝承やヨハネ的概念)による告白文部分よりも、前半が活きています。そして、このような場でイエス様の問いに呼び覚まされることへの信頼をもつ時、「弟子たち」とか「私たち」という共同性の問題を、「おだんご」的人間の集団、即ち、「弟子たちの多く」(66節)という複数形で表された人間の「おだんご」的人間の集団(地縁・血縁関係、上下関係・権威関係など)に組み込まれることをも恐れずに、処していく可能性を許されているのではないでしょうか。「弟子たち」は「信か、不信か」へ分けられてしまうのではなく、両方を含んだままで、将来に向かって招かれている者たちなのだ……というはじめの言葉を繰り返し、「弟子たち」という言葉の重みを自分に引き寄せて味わえたらいいですね。
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