主日礼拝 説教抄録  2023年度
    
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     受難節第2主日礼拝  説教「イエス様こそ救い主」

                 日本基督教団 茅ケ崎堤伝道所
                     
  2024年2月25日


   聖書  ヨハネによる福音書 9章32~33節

 
   32   生まれつき目が見えなかった者の目を
      
  開けた人がいるということなど、
       これまで一度も聞いたことがありません。

   33   あの方が神のもとから来られたのでなければ、
       何もおできにならなかったはずです。」
 




       説教「イエス様こそ救い主」 要約

生まれつきの盲人
 『ヨハネによる福音書』9章に登場するのは、ひとりの「生まれつき目の見えない盲人」です。当時の人々は、生まれつき目の見えない盲人を「不幸だ」と言って同情するにとどまらず、「これは、神様に捨てられたのではないか」と考えました。生まれつきの盲人は、旧約聖書では圧倒的にマイナスのイメージで語られています。盲人はイスラエルの法共同体の成員にはなれません。歴史・社会の主体にもなれません。生まれつきの盲人を、非力な者・悲惨な者を象徴すると同時に、神様の意志を認識せず、神様に聞き従うことをしない「頑なさ」「不信仰」「反抗」をも表わしてさえいたのです。近現代の私たちも「生まれつきの盲人」を、光なく、色なく、形もない。愛のまなざしもなく、友情のまなざしもない。癒されることもない。何の助けもない。生まれながらの必然のままに、その全存在が暗闇の状況に生きている人間であると誤解してはいないでしょうか。この物語は光を見るために必要な<光>が欠けているのは、実にこの私自身であることを気づかせてくれます。      
② 神の業がこの人に現れるため
 信仰の世界では生まれつきの盲人を意味づけたり、理由づけたり、理由探しすることに根拠を与え、答えを提供してきました。人は理由を問い、答えを聞き、結果としてユダヤ社会では律法遵守へ導きます。弟子たちが生まれつきの盲人を見て「ラビ、この人が生まれつきの盲人なのは誰が罪を犯したからか。本人か。それとも両親が罪を犯したのか」(9:2)と問うのはそういうことです。が、イエス様はそういう道筋を断ち切ります。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない」(9:3)は、イエス様が理由探し自体を拒否した言葉です。イエス様は、当時のユダヤ教の社会通念・信仰理解を否定するのみならず、生まれつきの盲人に社会的意味づけを行うことを拒否しました。更に、答えの提供も拒否します。「神の業がこの人に現れるため」の「この人に」の言語の意味は「この人に対して」です。即ち、この盲人においてというのでなく、この人に対して神様の業が現れる、という意味です。まさしくイエス様は、弟子たちの問いにまともに答えないのです。
③ イエス様こそ救い主  
 見えなかった人の目が開かれた事は大きな奇跡ですが、私たちの上にもイエス様にしか与える事が出来ない救いが事実与えられています。私たちの罪が赦され、ありのままに神様に受け入れられ、愛されて、神様と共に生きる新しい人になっている事です。「あの方が神様のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです」(ヨハネ9:33)。イエス様が、私たちの身代わりに十字架で死んで下さった事。このような救いを与える事ができる方は、イエス様をおいて他にいません。イエス様こそ神様のもとから来られた、ただ一人の救い主です。私たちが礼拝に集う目的の大切な一つは、イエス様以外に自分を救えるお方はいないと改めて信じ、告白することです。今朝の聖書の人が、「こんなことは、神様から来られた方でなければできない」とハッキリ言ったように。この人が、ユダヤ人からイエス様を否定するような事を色々言われたように、私たちの生活にも、イエス様によって救われている事を疑わせるようなことが沢山あります。でもイエス様が十字架で死なれた事実は誰が何と言おうと消えません。私たちのために、死ぬ苦しみを背負い切って下さったイエス様を心から信じて、「イエス様こそ、私たちの救い主」と告白して、生きていきましょう!

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 更新 : 2024. 2. 23  by mn

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