印刷用PDF |
降誕節第6主日礼拝 説教「神は愛です」
日本基督教団 茅ケ崎堤伝道所
2024年2月4日
|
聖書 ヨハネの手紙(一) 第4章16節b
|
神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、
神もその人の内にとどまってくださいます。
|
説教「神は愛です」 要約
|
① 自分自身が一番嫌い |
皆さんには、これだけは何があっても手放したくない物がありますか?もしあればと考えてみて下さい。それを売らなければ助けられないお友だちがいたら、売りますか? 売るとすれば、理由は、そのお友達が自分にとって、一番大事な宝物よりももっと大事な人だからです。神様にとって、私たちは、それと同じように大事な一人一人です。だって神様は、神様にとって最高の宝であるイエス様を私たちのために十字架にかけて下さったのですから。私たちは自分の本当の姿を思うと、そこまで大事にされているとは、とても思えなくなることがあります。以前、あるキリスト教学校に行っている友人から手紙をもらいました。学校の先生たちの悪口がぎっしり書かれていました。でも、最後に「こんなことしか考えられない自分自身が一番嫌い」って書いてあったのです。「そんな我がまま勝手な自分が神様にとって何よりも大事だなんて、とても思えません」って。でも神様は、金太郎あめのようにどこを切っても愛が出てくる「愛のお方」です。 |
② 神の愛 |
神の愛は、人間の愛とは違います。人間の愛は一時的な愛であり、嫌いになったら別れてしまう無責任な愛ですが、神の愛は4章7節以下にあるような愛。即ち、私たちが神を愛するから、神が私たちを愛して下さるという愛ではないということです。アメリカに奴隷売買がなされていた頃。カナダからアメリカ南部に商売に行ったある商人が奴隷市場を見ました。そこで年若い一人の女奴隷が売りに出されているのを見たのです。この可愛い女奴隷は、他の奴隷より、高価な値段で売買されようとしていました。商人は可愛そうに思い、思わず、更に高価な値段をつけてしまいました。結局、奴隷は商人のものとなりましたが、この商人はこの奴隷を自分のものとせず、自由にしました。この奴隷が自由の身となるためには「代価が払われ」「市場からとり出され」「解き放たれた」のです。私たち人間が律法の奴隷となり、罪と死の奴隷となっているのを神は、その独り子イエス・キリストの故に、救い出し、解放して下さった。「ここに愛がある」のです。 |
③ 神は愛です |
神様は、私たちの罪を赦すために、独り子イエス様を十字架にお掛けになりました。それほどに、私たちは神様に愛されています。この事実は、どんなことがあってもゆるぎません。ですから「愛にとどまる」とは、神様が、いつどんな時にも自分を愛して下さっていることを信じて、生きることです。それが「神の内にとどま」ること、即ち、神様を信じることです。「とどまる」という言い方は、あえてそうするという意志を感じさせます。愛されているとは思えないような現実があるけれど、事実愛されていることを知っているのだから、それにとどまろうというのです。そうできる理由が、今朝の箇所の少し前の10節にあります。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を贖ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」。神様の私たちへの愛は、イエス様を私たちの罪を償ういけにえとして、十字架にお献げになるという仕方で実行されました。十字架は、歴史の事実です。事実は、後の者がそれをどんなに否定してもあり続けます。神様の愛は、そのように、決して消えることもなければ、変わることもないのです。今週も、そのことを信じて、一緒に歩みましょう!
|
|