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降誕節第5主日礼拝 説教「聖書は神様からのお手紙」
日本基督教団 茅ケ崎堤伝道所
2024年1月28日
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聖書 ペトロの手紙 二 第1章16~21節
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16 わたしたちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせ
るのに、わたしたちは巧みな作り話を用いたわけではありま
せん。わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです。
17 荘厳な栄光の中から、「これはわたしの愛する子。わたしの
心に適う者」というような声があって、主イエスは父である
神から誉れと栄光をお受けになりました。
18 わたしたちは、聖なる山にイエスといたとき、天から響いて
きたこの声を聞いたのです。
19 こうして、わたしたちには、預言の言葉はいっそう確かなも
のとなっています。夜が明け、明けの明星があなたがたの心
の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうか
この預言の言葉に留意していてください。
20 何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分
勝手に解釈すべきではないということです。
21 なぜなら、預言は、決して人間の意志に基づいて語られたの
ではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったもの
だからです。
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説教「聖書は神様からのお手紙」 要約
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① キリストの栄光、預言の言葉 |
キリストの「来臨」のことが話題になっています。「来臨」とは、神の御子が受肉しヨセフとマリアの子どもとして誕生された初穂と、天に上げられた主イエスが再びこの世に来られる再臨の二つを指す言葉です。ここでは後者を指します。「主の日は盗人のようにやってきます」(3:10)。「主イエス・キリストは再びこの世に来られる」という教えを「巧みな作り話」と言って否定する人々がいました。ペトロは彼らを「偽教師」(2:1)と呼んでいます。再臨の教えが「巧みな作り話」ではないことを伝えるために、ペトロは自分が「目撃した」こと、「聞いた」ことを証言します。ペトロは山上の変貌の場面(マタイ17章ほか)で、キリストの威光を目撃した」ことと、「これはわたしの愛する子。わたしの心に敵う者」という天からの声を聞いたことを紹介します。変貌した主イエスの姿をペトロは再臨の主イエスのお姿の先取りであると捉えています。ペトロは「預言の言葉」を「暗い所に輝くともし火」と表現し、主の再臨までの希望の光と考えています。 |
② 聖書の預言とは、どういう性質のものか |
そこからペトロは、そもそも「聖書の預言とは、どういう性質のものか」という議論に入っていきます。聖書は、「聖霊に導かれて神様からの言葉を語ったもの」(21節)とペトロは記しています。ですから聖書は「神様の御言葉」なのです。十字架につけられた主イエス・キリストは、三日目に復活なさいました。そして、40日間、弟子たちと過ごされた後、天に上げられました。その時、弟子たちの前に「白い服を着た二人」(天使)が現れて「「あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」(使徒1:11)と告げました。天に上げられた主イエス・キリストが再びおいでになることを信じることが、キリスト教の信仰です。主イエスが天に上げられてからもう二千年近く経っていますが、まだ主イエスはおいでになっていません。ペトロは、「主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです」(Ⅱペトロ3:8)、「主の日は盗人のようにやって来ます」(同10節)と記しています。 |
③ 聖書は神様からのお手紙 |
「山上の変貌」、「再臨」、「聖書」と内容が濃く、全部伝えようとすると、説明ばかりの難しい説教になりますので、「聖書は神様からのラブレター」とポイントを絞って語ります。「聖書の予言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではありません」というペトロの注意(20節)は、大切です。礼拝の中では必ず聖書を読みます。聖書を読まない礼拝はありません。私はもう長く聖書を読み続けてきました。でも、まだ分からないことばかりです。「聖書が分かりました」と言えません。でも一つだけハッキリと言えることがあります。それは聖書には神様の愛が書かれているということです。聖書は私たちに宛てられた神様からのラブレターです。聖書は一人の人が全部を書いたわけではありません。沢山の人が書いたものが集められて聖書が出来ました。聖書を書いた人たちは、神様からのメッセージを聞いて、それを書き記しました。だから聖書には神様の愛が込められているのです。自分の好きな聖書の言葉のことを「愛誦聖句」と言います。不安になった時、苦しい時に愛誦聖句を読んで励まされたり、勇気をもらったりするのです。イエス様がこの世に来られる日まで、聖書を読み続けましょう。それを通して、神様の愛を確認し続けましょう。
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