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聖霊降臨節第20主日礼拝 説教「知恵の初め」
日本基督教団 茅ケ崎堤伝道所
2023年10月8日
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聖書 (旧約)箴言1章:1-7節 / (新約)コロサイ2章:1-3節
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「知恵の初め」 要約
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導入 |
本日、テキストとした「箴言」は、旧約聖書の中では、「ヨブ記」「コヘレトの言葉」などと共に、そのジャンルは
知恵文学と呼ばれています。そして、その箴言の冒頭の部分/1章1節は、タイトルとして、「イスラエルの王、ダビデの子、ソロモンの箴言。」となっています。ですから、箴言の内容は、ソロモン王によって作られた教訓が集められたもので、人間の日常生活における格言集と言えるものです。
では、その格言集となった知恵文学の「箴言」、そこに記されている「知恵」とは、一体何か?を見て参りましょう。
<知恵文学と知恵>
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いにしえの昔、イスラエルでは、古代ヘブライ語で、「知恵」は(ホクマー)という単語で表現されていました。その意味は、「成功するための技術」ということを表し、理想や概念ではなく、「実用性が重視された知恵」のことだったと考えられています。 つまり、イスラエル人にとっては、知恵を持った知恵者とは、「実践的な技術の習得者」、「日常
生活を賢く生き抜く洞察力の所有者」のことであったわけです。
そして、この「知恵ある者」とは、ユダヤ社会におけるいわゆる「長老」のことであったようです。ですので、その知恵ある者としての長老たちが、十分に練って語り伝えたものをまとめて、記録したものが「箴言」であるわけです。
古代イスラエル社会においては、長老たちが町の門の所で裁判を行ったり、公の問題を議論し合ったりしていました。そして、その議論の場では、どうしたら人間は正しく人生を歩めるのか?、どうすれば、現実の世界の実際問題について、幸福な生活をすることができるのか?を論じ、人々に教えていたと考えられています。そのため、知恵文学の格言集と言える「箴言」では、箴言の全体/1章から31章まで、新共同訳聖書でわずか 40ページ余りの中に、多くの思想的な単語が出てきます。
その最たるものが、「神」142回と「主」118回。それに次いで多いのが「知恵」で96回です。聖書が、神様の霊感によって書かれた書物である以上、絶対者である「神」と「主」が最多であるのはわかりますが、それに続いて多いのが、
「知恵」なのです。
ここで、注意が必要なのですが、旧約聖書「箴言」において諺や格言のように出てくる「知恵」については、いわゆる
「具体的な生活の知恵」であるばかりではなく、そんな次元をはるかに超えて、本質的に人間が生きていくための「知恵」としても、意味深長に語られてもいることがわかります。
ですから、知恵は、神(主)との関係において、イスラエルにおいては、単なる実生活上のスキルとしての知識であるばかりではなく、また、いわゆる哲学や科学のアカデミックな学問の領域だけでもなく、さらには、単なる道徳を目標とするものでもなく、もっと言えば、更に神学的な知識のことだけでもないのです。 |
<「箴言」という書の内容と「知恵」>
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したがって、箴言の中に収められているのは、一見、実用的な知恵ではありますが、その内容においては、
世の中で一般にいう諺や格言ではなく、神との関係において、神の律法を知り、その原理を生活のすべてに当てはめて生きるために必要な究極の知恵が扱われていることがわかります。そして、ソロモンと長老たちがつくった教え・格言・箴言は、まさに、そういう神との関係において、人間が自分の立ち位置を知る「知恵」であるということができます。つまり、人生における実際の生活を歩みながら、人間はどうしたら聖い道を歩むことができるかという「知恵」を示していると言えるでしょう。そして、「主」という単語と「知恵」という単語が、同じ1つの文章の中に出てくる 1章7節は、両者の関係を、キリスト教の正典・聖書において規定する重要な一文であるとも言うことができるのです。そんなこの7節の文章では、「主なる神を畏れること」が、先ず、大前提であり、それが全ての初めなのだと、言い切っているのです。そんな重要な文章である7節を、書物の冒頭に置いた箴言は、神を信じる者への実用的な実地訓練の書であり、未熟な若者達に対して、誤ることなく、神の前で実際生活を送らせるための信仰生活の指導マニュアルであるということが出来るわけです。ですので、箴言が語る「知恵」とは、本質的に人間が悟ったり、導き出したりするような類のものではなく、神が人間に与えるものであったということが出来ます。聖書箇所をあげると・・・
◆この知恵を得るためには、神の啓示が必要であり(ヨブ記28章23節)
◆知恵は神のみに属していて(ヨブ記12章13節)
◆その知恵は天地創造において用いられている崇高なものとされています(箴言3章19節)などです。 |
<神を畏れることは学問のはじめ>
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ところで、私達人間はだれもが、1人になって、自分に関わる世の中のことをトコトンそぎ落として、自分を見つめていく時、最後に残るものは「ありのままの丸裸の自分」であることを知っている存在です。そして、私達はそのありのままの自分という存在を、鋭い義のまなざしで見つめてくる視線と、あたたかい愛の視線にも、多かれ少なかれ気づいているのではないでしょうか。そうです! その視線とは、全てを見ておられる全能者・神のまなざしに他なりません。そのような「神の前」に立っていることを強く意識させられる空間に立つことで、はじめて人間は、神の啓示を受けることが出来、そこで初めて、神の啓示としての「知恵」を受け、本当の人生を生きることが出来るようになるのです。
その神の前に立つ場、それが礼拝の場であり、一人で祈っている時です。そんな状態のことを7節の前半「主を畏れることは知恵の初め」という御言葉は表現しています。
しかし、一方で、その場で私たち人間は、神の崇高で巨大な「知恵」をうけることが出来るものの、その場でさえ、人間にとっては、ようやく「知恵」の一部を垣間見ることが出来る場に過ぎないのだということを忘れてはなりません。なぜなら、「知恵」の全てを御存じであるのは、神であり主である方、お一人であるからです。被造物である私達人間には、「知恵」の全てを知ることは許されてはいません。
だからこそ、この聖句・箴言1章7節では、知恵とは、「主を畏れること」であると語っているのです。
ところで、コロサイ書2章3節には、「このキリストのうちに、知恵と知識との宝が隠されているのです」と書かれています。このキリストの内にとは、キリストを知ること、キリストにあって物事を見ていくことを表しています。そして、そこにこそ、知恵と知識があるのだとコロサイ書2章3節では定義しているのです。
知恵ということについて、コロサイ書では、「キリストの内に隠されていて」と書かれているのですから、やはり、「知恵」は人間が自分で掴み取るものではなく、神から啓示や奇跡によって与えられるものなのでしょう。
このコロサイ書2章3節の「キリストのうちには、知恵と知識との宝が、いっさい隠されている」ということについて、もう少し考えてみましょう。 |
<近現代の科学・サイエンスと神の啓示>
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万有引力を発見したニュートンも/進化論のダーウィンも/電磁気学のマックスウェルも/DNA 2重らせん構造のワトソンとクリックも、みんな、神が「知恵」を啓示して下さったので、ある時、ハッとして閃いて、世界的大発見をして、論文に書き留め、まとめたのです。コロンブスの卵だって、同じことで、神が「知恵」を啓示して下さったので、できた閃きと言えるでしょう。
それでは、新約に生きる現代の私たちにとって、神様からの最大の啓示とはいったい何でしょうか?
それは、主、主イエス・キリストが、十字架に架かって史上類無い惨めな仕方で死に、黄泉の奥底にまで徹底的に低く降ってから、その上で、死をぶっ飛ばして勝利して復活し、天に還ったという出来事、それが史上最大の啓示なのです。これが、「キリストのうちには、知恵と知識との宝が、いっさい隠されている」という御言葉の真意です。
なぜなら・・・・・・、私達人間にとっては、それまで、どこへ持っていっても解決できない罪が、イエス・キリストの 十字架によって、 はじめて許されたからです。そして、それが、キリスト教信仰の根拠となっているのです。そう、キリスト教の知恵そのものです。そのことのゆえに、私たちには、神の前に、神を土台とする望みが与えられているのです。箴言1章7節では、それが、私たち人間の「知恵の初め」だと言っているのです。そこでは、病気がどうだとか、あれがこうだとか、高度なアカデミカルな学問も含めて、世の困難なアレコレとかいうことは、全く問題ではなくなってくるのです。 |
<知恵の初め/私達の中心>
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キリスト教信仰において、キリストを信じる者は、そういう意味で中心にあるものをはっきり知らなければなりません。キリストの十字架と復活によって、罪を赦されたということを知る「知恵」が、知恵の初めであるのです。このことは、円の中心が定まれば、中心から円周への距離も定まって美しい円が描けることに例えることが出来ます。つまり、円の基準である中心が定まると、世の中のアレコレという問題も、全て円周上にある360°の全方位で円の中心から等距離に並んでいて、ゴタゴタしたところがなくなり、みな等距離になって、理解することが出来るというわけです。でも、逆に、何が何だかわからない?とか、五里霧中?とか、私達がそのように感じている時、私達人間は中心がはっきりしていない状態に陥っているのです。
パウロは、「貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。(新共同訳)フィリピの信徒への手紙/4章12節」」、と語っています。つまり、現実の生活において、その具体的な状況は如何にあっても、中心にあるキリストという知恵が、キチンと据えられていれば、絶対に大丈夫だ!とパウロは語っているのです。
私達の中心とは、主イエス・キリストという一点です。その中心さえわかったら、私たちは不安に苛まれたり、また、逆に慢心に陥ったりすることはなくなるのです。これが、聖書が語る「知恵」というものなのです。
世の中には、様々なわからないことがあります。自分の興味本位のナゼナゼを連発しながら、出口や答えのない空しい研究に埋没してしまっている多くの研究者・学者もいます。神という中心点を見失った状態で、ナゼナゼを連発してもまるでナンセンスなのです。なぜなら、神は、「わたしは主である」と言っておられるのですから。
この「わたしは主である」とは、世の全ての事象の中心点としての「主である神」のことを表現しています。それがわかれば、私達の生きる現実世界において、闇も光と同じものになってくるのです。「夜も昼も共に光を放ち/闇も、光も、変わるところがない。」(詩篇139:12)と書かれているように、そういう世界が信仰による知恵の世界であるのです。
<まとめ>
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このように、イエス・キリストという知恵の中にいっさいが隠されていることがわかったとき、私達にとって、全ての事象が中心点から等距離にあることがわかり、安心と自由と平和が与えられます。それが信仰による「知恵」によって与えられる恵みなのです。
本当の意味における中心点が、神に在るのだと言うことがわかれば、「見るな、言うな、聞くな(見ざる・言わざる・聞かざる)」というような規制や、しがらみから解き放たれて自由にされるのです。これが、キリスト教信仰の真骨頂です。もちろん、私達の信じるキリスト教にも律法があります。しかし、律法は手段であって目的ではありません。イエス・キリストによって罪が赦されたということは、あらゆる規制や束縛から自由にされたということなのです。律法を守らなくてはならないという束縛された息苦しい生き方とは、まるで違った自由にされた者の正しい知恵が、神が中心であることを人間に示してくれるからです。
私達人間にとって、自分の信仰の人生における確たる中心を持ち、神のためにはなんとしても与えられたこの務めを果たしていきたいという気持ちになれば、これほどすばらしい生活はないのだと私は思います。だから信仰生活は、神から命ぜられたからしなければならないとか、規定があるからこうだというものではなく、私のために十字架について死んでくださったイエスのために、私もまた、ベストを尽くして、中心に神を据えて生きる……というポジティブで積極的な覚悟のあるものがクリスチャンの生活だ!と言えるでしょう。それが福音信仰というものです。そういう信仰でなければ、いくら厳しい苦行をしても、いくら熱心に祈っても、一生懸命に努力をしても、それは単なる自己満足だけであって、そこからはなんの力もわいてはこないのです。
ここまでお話してきたことを要約すれば・・・、
イエス・キリストのうちに、いっさいが隠されているということなのです。そして、それが、箴言1章7節の「主を畏れることは知恵の初め」ということなのです。コロサイ2章3節の「キリストのうちには、知恵と知識との宝が、いっさい隠されている」と聖書が語るとおりなのです。
主イエス・キリストだけを仰ぎ、信じて従っていくのが私達キリスト者の生き方です。そして、それが「知恵」であり、「知恵の初め」であるのです。 |
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祈り
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このメッセ―ジでは、「知恵の初め」というテーマで、知恵とは何か?について、その意味するところを、絶対者である神・主と私達人間の関係性も含めて、主の御声をメッセージとして聞きとることができました。知恵の初めであり、土台なる主イエス・キリストが、私達人間に相応しく寄り添って、「知恵」を一人ひとりに与えておられます。そして、その知恵は、私達人間が自らの能力や努力でつかめるようなものではなく、啓示として、神が私達人間に、天から地へ、上から下へと、与えて下さるものです。私達は、知恵そのものである主イエス・キリストによって、自由に、前向きに、積極的に、ベストを尽くして、神の知恵を尋ねつつ、どこまでも主を畏れる者として、主を第一とする者でありたいと願うものです。そして、私たちは、そんな「知恵」を与えていただいたクリスチャンとして、自らの人生を、キリストをいつも啓示していただきながら、主と共に歩むことが出来ることに感謝致します。
私達は、「主、共にいます」/「主、われを愛す」/「主、すべてを知り給う」 ということを、決して忘れることなく、あなたの知恵に生きる者であることが出来ますように。尊き主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン |
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