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聖霊降臨節第17主日礼拝 説教「イエスさまっぽさ」
日本基督教団 茅ケ崎堤伝道所
2023年9月17日
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聖書 マルコによる福音書 9章1~8節
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「イエスさまっぽさ」 要約
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① 神さまっぽい服 |
「はだかの王さま」というお話があります。「はだかの王さま」ってタイトル、面白いですね。 王さまはだいたい王冠やマントをつけていたり、とても立派で高そうな服を着ていたりします。はだかの王さまなんて見たことがありません。王さまがはだかなんて、ありえないこと。だから、「はだかの王さま」というタイトルだけでもおもしろく思うのでしょうね。もしも、王さまが、はだか…とまでいかなくても、王さまらしくない服、たとえば、Tシャツにジーパン姿だったら、誰も王さまだと思わないでしょう。王さまは王さまらしい服を来て、自分が王さまであることを伝えているのだと思います。今朝の箇所で、イエスさまは素敵な服を来ます。どんな服かというと、どんな職人さんも作ることができないくらい真っ白に輝いている服だそうです。イエスさまは神さまのひとり子だから、やはり人間に作れないような真っ白の、神さまっぽい服が良さそうですね。しかも既に天にのぼられたエリヤやモーセともお話ししています。神さまっぽいですね。 |
② これはわたしの愛する子、これに聞け。(マルコ9:7)
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エリヤは旧約聖書に登場する預言者です。「人々は好きなようにあしらった」(13節)とあるように、彼は人々から勝手にあしらわれ翻弄された悲劇的な人でした。モーセは昔イスラエルの人々をエジプトから導き出した指導者で、エジプト脱出後40年間も荒れ野を旅し、その間、人々から何度も裏切られました。約束の地を前にして生涯を終えたと伝えられています。この二人と語るイエスさまもまた、人々からあしらわれ、十字架にかけられて殺されます。その三人が語り合っている姿を見たペトロ、ヤコブ、ヨハネには、イエスさまが高い山という天に近い場所で人間離れした白さに包まれ、輝いている姿が神の栄光そのものと映ったのでしょう。ペトロはエリヤ、モーセ、イエスさまの三人のために「仮小屋を三つ建てましょう」(5節)と言いました。三人とずっと一緒にいたかったからです。すると雲の中から声が聞こえました。「これはわたしの愛する子、これに聞け」。小屋はなくても大丈夫。イエス様に従いなさい。そうすれば、一緒にいられますよ。 |
③ イエスさまっぽさ |
イエスさまたちは何を話していたのでしょう。今朝の箇所の直後に記されている「人の子が死者の中から復活する」(9節)や「人の子は苦しみを重ね、辱めを受ける」(12節)というイエスさまの言葉から推測するとイエスさまたちは十字架の死に関わることを話していたと考えられます。今朝の箇所は明るく光り輝くような情景が示されていますが、そこで語られていたのは暗く悲しい内容です。ペトロは光り輝く方を賞賛し、暗く悲しい方を諌めるのです。私たちも同じことをしてはいないでしょうか。神さまはいかにも栄光に満ちていて、私たちの人生を明るく変えて下さると考えてしまいます。暗く悲しい出来事が起こると「どうして神さまは、こんなことを…」と、神さまを諫めるのです。イエスさまはこの後山を下りて病気で苦しむ子どもに向き合います。高い山の上の「仮小屋」で、人々を見下ろしながら暮らすのではなく、平らな所、人々の日常が行われる場所こそ、イエスさまに相応しい場所だからです。イエスさまが偉大なのは高い山にいて、人間離れした輝きをまとっているからではありません。人間の苦しみや悲しみに語りかけ、寄り添い、支え、生かそうと働きかけて下さる、そういうイエスさまだからこそ救い主なのです。
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