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復活節第6主日礼拝
説教「イエス様について行こう」
日本基督教団 茅ケ崎堤伝道所
2023年5月14日
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聖書 マルコによる福音書 第1章16節~20節
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「イエス様について行こう」 要約
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① イエス様の最初の活動 |
喜びを伝える働きを始めるイエス様は、その働きを手伝ってくれる人が必要であると考えました。本来ならば、お一人で何でもできるはずのイエス様が、漁師を弟子にするところに、イエス様の活動と教会の本質があります。イエス様がシモンとその兄弟アンデレを「ご覧になった」(16節)。二人に「わたしについて来なさい」と言うと、二人はすぐに網を捨ててイエス様について行きました。もう少し進むと、やはり漁師の兄弟ヤコブとヨハネを見つけます。この二人にも声をかけると、二人はお父さんや仕事仲間や舟や網や全部をその場に残して、イエス様のあとについて行きました。シモンとアンデレに声をかけた時、イエス様はこうおっしゃいました。「人間をとる漁師にしよう」と。魚ではなく、人をとる漁師。不思議です。この言葉は、シモンとアンデレだけでなく、ヤコブとヨハネにも語られたことでしょう。彼らを「人間をとる漁師」にするために、まずイエス様ご自身が、人間をとる漁師として、深い眼差しで四人をご覧になられたのです。 |
② 人間をとる漁師
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イエス様がシモンとアンデレを「ご覧になった」(16節)という言葉は、じっと見つめたという意味の言葉です。漁師というのは、鋭い目で魚がいる場所を見つけることができるのでしょう。同じように、イエス様は、鋭い眼差しで、神の国を必要としている人間を見いだしました。そして、魚をとる漁では捕まえてしまいますが、人間をとる漁では、罪と死の世界から解放するのです。そうなると、この「人間をとる漁師」というのは、網を打って魚をとるように、誰彼構わず声をかけるというのではありません。イエス様は、その人の本質を鋭い眼差しで見つめつつ、さらに、愛の眼差しでとらえ、神の国へと招かれるのです。そのような四人の漁師たちを、「人間をとる漁師」へと招かれました。「イエスの後について行った」とある言葉は、文字通り後ろにくっついて行くという意味があります。イエス様を見失わずについて行くことが、神の国への導きとなります。そして、イエス様の呼びかけに応えていく人の集まりが、私たちキリストの教会です。 |
③ イエス様について行こう |
漁師たちにとっては、突然の招きだったかもしれません。しかし、イエス様は招く前から、シモンとアンデレがガリラヤの湖で網を打っているのを「ご覧に」なり、ヤコブとヨハネも「ご覧に」なられ、それぞれじっと見つめられるイエス様の眼差しは、鋭くも深いものでした。そして、彼らが本当に必要としていることを見極めました。それは、罪と死からの解放です。この解放は、私たちすべての人間に必要なものです。教会というところは、このイエス様の呼びかけの言葉に従った人たちの集まりです。教会には、漁師だけでなく、いろいろなお仕事の人がいます。年も違います。でも、イエス様から「わたしについて来なさい」と呼ばれて従った、ということだけは同じです。そして、イエス様の弟子になりました。そこに、神の国が始まります。イエス様は、神の国を実現してくださいました。そして、今もあなたを神の国へと呼んでくださいます。私たちも、イエス様の招きに従って、イエス様を見失わず、しっかりイエス様について行きましょう! |
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