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復活節第4主日礼拝
説教「荒れ野へ行ったイエス様」
日本基督教団 茅ケ崎堤伝道所
2023年4月30日
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聖書 マルコによる福音書 第1章12~13節
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「荒れ野へ行ったイエス様」 要約
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① イスラエルの民のつぶやき |
昔、イスラエルの人たちはエジプトで奴隷にされていました。しかし神様がみんなを助けて下さいました。イスラエルの人たちはエジプトを脱出し、荒れ野へ行き、40年、荒れ野の旅を強いられました。荒れ野は砂と石ばかり、水もないし、食べ物もありません。イスラエルの人たちは、すぐに文句を言いました。「お腹が空いて死にそうだ。エジプトで死んだ方がましだった」。すると神様は、マナという不思議な食べ物を与えて下さいました。でも、しばらくすると、「喉が渇いて死にそうだ。神様は、なぜ私たちをエジプトから連れ出したのだ」と言いました。すると神様は、岩から湧き水を出して下さいました。でも、しばらくすると、また文句を言いました。「毎日、マナばかり。お肉が食べたい」。神様はお怒りになりましたが、うずらの群れを連れてきて下さり、イスラエルの人たちは、それを捕まえて食べました。このように、イスラエルの人たちは荒れ野で文句ばかり言い続けました。荒れ野は、人々の本性(罪深さ)が現れる場所でもあったのです。 |
② 荒れ野について思いを馳せる
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それから何百年も経ちました。イエス様は洗礼をお受けになったあと、荒れ野へ行かれました。それは、“霊”によるものでした(12節)。新共同訳聖書は、「(“霊”が)送り出した」と訳しましたが、この語は原文で、「追いやる、追い出す」という荒々しい言葉です。イエス様は、“霊”に強いられ、荒れ野へ行き、厳しい戦いをします。昔、奴隷であったイスラエルの民は、エジプトを脱したあと、40年荒れ野の旅を強いられましたね(出エジプ記~申命記)。また、預言者エリヤも、40日40夜、荒れ野を旅し、神の山ホレブに導かれました(列王記上19:8)。荒れ野は、水も食糧もなく、誘惑(試み)を経験する場として、たびたび聖書に登場するのです。そして実際、イスラエルの民は、荒れ野で多くの誘惑に遭いました。民は、誘惑に屈し、神様にして頂いたことを忘れて、何度も不平をつぶやきました(出エジプト記16:3、詩篇78:17~20など)。イエス様が荒れ野へ送り出されたのは、飢えと渇きの苦しみを知り、サタンの誘惑を知るためでした。 |
③ 荒れ野へ行ったイエス様 |
イエス様は、40日間も荒れ野にいました。マルコによる福音書は、イエス様が荒れ野にいる間、「野獣と一緒におられた」とも記します(13節)。この「野獣」をサタンと同じに考えることはできます。野獣のような凶暴なサタンの誘惑にイエス様は遭われたが、天使たちに守られた、と。しかしもう一つの読み方もできます。それは、イザヤ書の言葉を背景にした読み方です。「狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ、幼子は蝮の巣に手を入れる。」(11:6~8)。救い主が来て下さった時に起こる平和の光景です。この光景が、イエス様が来て下さったことによって実現した。またその実現に向けて、イエス様は、ここから歩み始めて下さったとも読むことができるのです。イエス様はこのあと、人が住む場所へと戻って来られます。イエス様は、荒れ野へ行かれて、私たちが受けるサタンの誘惑を知って下さいました。辛くなると神様に文句ばかり言う私たちの弱さや心の醜さも、知って下さったのです。そして、御自身の使命(十字架への決意)をまた新たにされるのでした。 |
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