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復活節第3主日 説教「イエス様の洗礼」
日本基督教団 茅ケ崎堤伝道所
2023年4月23日
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聖書 マルコによる福音書 第1章9節~11節
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「イエス様の洗礼」 要約
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① 福音書という手紙 |
聖書は難しいと言います。それなら難しいところはそのままにして、繰り返し読んでみてはどうでしょうか。何度も読んでいる内に必ず全体の流れと方向が見えてきます。1章1節から15節はマルコによる福音書全体の序文ですが、ここには繰り返し出て来る言葉があることに気づきます。「福音」という言葉です。1節に「神の子イエス・キリストの福音の初め」とありますし、最後の14~15節は「福音を信じなさい」という主イエスの呼びかけで結ばれています。ここだけでなくマルコ福音書の全体は「福音」を伝えようとしているのです。新約聖書の目次を見ると分かるのですが、そのほとんどが手紙です。だから「新約聖書はたくさんの手紙と福音書とから成り立っている」と言えます。でも、福音書も実は手紙であると気づきます。人から人に伝えたいことがあるからこそ、心をつくして書く、それが手紙です。福音書はイエスの伝記というよりは、むしろ私たちへのイエス・キリストという良い知らせ、手紙であるのだと言えるでしょう。 |
② バプテスマのヨハネ と イエス様
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「福音」という言葉に挟まれた2節からは何が書かれているでしょうか。まず旧約聖書の預言の言葉に証しされて、バプテスマ(洗礼者)のヨハネ が登場します(2節)。バプテスマのヨハネは人々に、主の道を備えるようにと悔い改めの洗礼を述べ伝えます(4節)。ヨハネは救い主ではなく、自分よりも優れた方を指し示す者でした(7~8節)。何かが新しく始まる時には、合図があります。野球の試合が始まるときにはサイレンが鳴ることがあります。大きなホールでコンサートが始まるときにブザーが鳴ります。礼拝が始まるときにチャイムや鐘が鳴る教会があります。「もうすぐ始まるよ」「さぁ、始まるよ」って、チャイムや鐘の音を聞くと、それだけで一緒に心もおどります。イエス様が神様の良い知らせを伝え始めるそのとき、チャイムのようにそれを知らせる人がいました。それがバプテスマのヨハネです。新しいことが始まる、ワクワクしている多くの人たちが、ヨハネのところにやって来て洗礼を受けました。イエス様もその中の一人でした。 |
③ イエス様の洗礼 |
イエス様が洗礼をお受けになると、天が裂けて“霊”が鳩のように降ってきます。「鳩のよう」という表現は、ノアの洪水物語に登場する平和の象徴として、神様の知恵や優しさの象徴として、優雅に飛ぶ姿の象徴として「鳩」が用いられた。「天が裂けて」は、神様の心が明らかにされたことを意味します。イエス様が十字架で息を引き取り、その直後、神殿の至聖所の垂れ幕が「裂け」(15:38)に出てきます。神様の心とは、イエス様こそが神様の愛する子であり、神様の心に適う者であるということでした。神様の子でありながら、イエス様は罪人と同じ場所に身をおいてくださいました。それが、イエス様の洗礼です。これによって私たちの救いの道がひらかれたのです。イエス様が洗礼をお受けになった出来事は、私たちに衝撃を与えます。罪がないイエス様が、罪人のようになってくださったのですから。私たちは、神様の子どもです。私たちが神様の子どもとされるためには、イエス様の犠牲が必要だったのです。イエス様が、人となり、罪人のように洗礼を受け、罪人の身代わりとして十字架にかかる。その貴い犠牲があって、私たちも、「あなたは、わたしの愛する子」と神様から呼んで頂けるのです。それって凄いことだと思いませんか? |
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