主日礼拝 説教抄録  2023年度
    
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      復活節第2主日   説教「ごめんなさい」

                日本基督教団 茅ケ崎堤伝道所
                     
 2023年4月16日


聖書 イザヤ書 第40章3~5節

「ごめんなさい」 要約
神様は、一人の預言者を捕囚の民に送ってくださった
 紀元前598年、南ユダの首都エルサレムは、バビロン軍の攻撃を受け、降伏し、王を始め、高官や技術者たち、また若者たちが、バビロンの地へ強制連行されました。「バビロン捕囚」と呼ばれる出来事の始まりでした。その後、捕囚は数回に分けて行われ、イスラエルの人たちは、異国の地における生活を強いられることになります。エルサレムからバビロンまでの間には、広大な荒れ野が広がっていました。イスラエルの人たちは、幾度となく、その荒れ野を悲しみの目で見つめていたことでしょう。荒れ野のはるか向こうには、故郷がある。しかし帰ることは許されない。目の前に広がる荒れ野は、自分たちの希望をはばむ高い壁、または深い淵のように見えたことでありましょう。それが何十年も続くのでした。しかし神様は、一人の預言者を捕囚の民に送ってくださいます。その預言者は、天からの声を聴き、民に希望を語ります。「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ…」と。             

荒れ野に、新しい道が建設される

 天からの声は、なんと荒れ野に、新しい道が建設されるというのです。谷が埋まり、山が低くなり、道が作られる。しかもそれは、人の手によるものではなく、天からの声によってなされるのです。まるで、「光あれ」と呼びかけると、光があったあの天地創造の時と同じように! これは、「咎が償われた」(2節)、すなわち罪の赦しを意味しました。そもそも捕囚は、イスラエルの歴代の王と民が犯し続けた罪の結果でありました。その罪によって、神様と民との間に距離が生まれ、それが埋めがたいものになっていたのです。その象徴が、エルサレムとバビロンの間に広がる荒れ野だったと言えるのです。しかし今や、神様がその罪を赦してくださる、と預言者は宣言します。荒れ野に道が敷かれ、罪許された民が帰ってくる。そのようにして、主の栄光、すなわち、罪を赦す主の偉大さが現れるのでありました(5節)。神様と人間(私たち)の間には、広大な荒れ野が広がっていました。そこに、新しく道が敷かれる幻を預言者は、語っているのです。
③ ごめんなさい
 今朝の聖書箇所、イザヤ書40章3〜5節は、マルコによる福音書1章2〜3節に引用されます(文言は多少異なります)。洗礼者ヨハネの登場、そしてそれに続くイエス様の到来の意味づけとして引用されます。これは重要なことです。洗礼者ヨハネの登場は、(そしてイエス様の到来も、)私たちと神様との間に広がった荒れ野に、新しい道を敷くためのものでした。私たちも、イスラエルの民と同じように、神様との間に埋めがたい距離、すなわち、荒れ野が広がっていました。荒れ野のように広がってしまった神様との距離。それは、私たちの方から埋めることはできません。私たちの力だけでは、どうすることもできないものでありました。しかし今や、神様の方から、その荒れ野に道を作ってくださいました。洗礼者ヨハネを通し、悔い改めが呼びかけられ、そして、荒れ野の道として、イエス様が来てくださったのです。私たちも、神様に対して、たくさん悪いことをしています。でも神様は、私たちが「ごめんなさい」と言えるように、イエス様を送ってくださいました。そして、私たちのことを赦してくださいました。神様はイエス様を通して、私たちが心から「ごめんなさい」と言えるようにしてくださったのです。嬉しいですね。

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日本キリスト教団  茅ケ崎堤伝道所
牧師 三原 信惠、伝道師 細井 宏一
 更新 : 2023. 5. 6  by km. mn

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