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棕梠の主日礼拝 説教「イエス様の十字架」
日本基督教団 茅ケ崎堤伝道所
2023年4月2日
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聖書 ルカによる福音書 第23章32~49節
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「イエス様の十字架」 要約
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① 三本の十字架 |
ゴルゴタの丘には三本の十字架がありました。中央にイエス様が、その両側に二人の犯罪人がつけられました。一人の犯罪人は言います。「お前がキリストなら、自分自身も、そして俺たちも救ってみろ」と。彼は何の反省もなく、自分の罪を他人にかぶせ、社会に責任を転嫁する態度です。もう一人は申します、「我々は当然の結果として罪を受けているのだ、だが、この方は何の悪いこともしていない」と。彼はイエス様の無罪を告白することができました。同時に自分の罪を認め、自分自身の責任であることを告白し、潔く刑罰を受けようと決心します。そして彼はイエス様に謙遜な願いを述べます。「主よ、あなたが御国においでになる時には、私のことを思い出して下さい」。彼は自分が天国に入る権利も資格もないことを知っていました。頼むべき業はないし、悔い改めを示して善行をつむ機会もない。ただ打ち砕かれて、主の憐れみにすがるのです。するとイエス様は、「はっきり言っておく。あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われました。 |
② 父よ、彼らをお赦しください。
自分が何をしているのか知らないのです(34節)
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イエス様は何も悪いことをしていないのに裁判にかけられ、十字架につけられることになりました。鞭を打たれ、十字架を丘まで運ばされ、十字架に手と足を釘で打ちつけられ、その十字架が丘の上に立てられました。イエス様を見た人たちは、声を上げて笑いました。「他人を救ったのに、自分は救えない。何て、かっこ悪い救い主よ」。「お前が王様なら自分自身を救ってみろ」。特にイエス様を逮捕した人たちは、いい気味だと思ったのです。その時です。十字架の上からイエス様の声が聞こえてきました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」。新共同訳聖書では、この節に〔 〕がついています。聖書は、書き写されて伝えられてきました。「写本」と言います。その写本の中に、この節がないものもあるのです。なぜ、そのような写本があるのか。学者たちの間で議論は尽きません。おそらく、あまりにも信じがたい言葉で、書き写すのをためらったのでしょう。でも、私たちはこの言葉をイエス様の言葉と信じます。 |
③ イエス様の十字架 |
イエス様の十字架は、イエス様が寛容だったことを意味しているのではありません。イエス様は、十字架においてご自身をいけにえにしながら、とりなしの祈りをして下さったのです。イエス様の十字架の出来事から、私たちの罪が見えてきます。神様の無力さをあざける罪。自分の正義に酔いしれ、人が苦しむのを楽しむ罪。自分が何をしているのか知らないのが、私たち罪人の姿です。しかしイエス様は、その私たちのために、命を献げて、祈って下さったのです。イエス様の十字架は、とりなしでもありました。イエス様の十字架によって、私たちの罪は、赦されたのです。イエス様は、犯罪人もとりなし、赦しを約束して、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と言って息を引き取りました。それを見たローマの隊長が言いました。「本当に、この人は正しい人だった」。イエス様は神様がお考えになる正しい事をなさったのです。それは、罪人を罰するのでなく赦すことでした。イエス様は、そのために十字架にかかって下さったのです。私たちも罪人です。心の中で悪いことを考えるし、神様が嫌う事をしてしまうからです。その私たちのために、イエス様は十字架で死んで下さったのです。イエス様の十字架、何と大きな愛でしょう。 |
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