主日礼拝 説教抄録  2022年度
    
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        復活前第4主日(受難節第3主日)礼拝 
        
         説教「自分の十字架を背負う道」

               日本基督教団 茅ケ崎堤伝道所
                     
 2023年3月12日


聖書 ルカによる福音書 第9章18~27節

「自分の十字架を背負う道」 要約
ペトロの最初の信仰告白
 今朝の個所は、ペトロが初めて「(イエスは)神からのメシアです」と告白した時のことが記されています。この信仰告白は、「群衆はわたしのことを何者だと言っているか」(18)という主イエスから出てきた問いです。弟子たちは他の人がどう考えているのかということなら、「洗礼者ヨハネ」や「エリヤ」、又「昔の預言者が生き返った者」と気軽に言えます。でも弟子たちはすぐに答えられませんでした。勿論、みんなイエス様のことが大好きです。しかし、そのことを言葉として語るのには勇気がいります。好きな人の目の前で自分が書いたラブレターを読むようなものです。皆が口をつぐんでいると、ペトロが答えました。これが、ペトロの最初の信仰告です。でも、たぶん、この時にぺトロがイメージしていた「メシア」とは、栄光に満ちたイエス様の姿だったことでしょう。誰も、イエス様が十字架で死ぬなんて、思いたくありませんでした。だからこそ、主イエスは、続けて、十字架による死と復活という神様の神秘に満ちたご計画を語られたのです。             
日々、自分の十字架を負って
 主イエスは「自分を捨て」「自分の十字架を負え」「主に従え」という三つの命令を下されます。『自分を捨て』=自己否定です。しかしそれは自己訓練のための禁欲ということではありません。自分の義を立てる事ではないのです。主が言われるのは、すっかり自分をあけ渡し、無条件降伏をすること、そしてどんなことでも神様の命令のままに進むことです。行為によってではなく、恵みによって義とされるのです。『自分の十字架を負え』=「自分」が好きで選んだ道ということではありません。キリストが負えと命じられる課題を責任回避することなく正面から取り組むことです。キリスト者の負うべき十字架を語り合うのではなく、私自身に関わるものとして、「今、ここで」キリストと共に生きるのです。「自分の十字架」は一人ひとり重さも形も皆、違った十字架です。『主に従え』=苦難の生涯を「我が道を行く」のは、正しい生き方ではありません。主イエス・キリストに完全な服従がなしとげられる、これがキリストに従う者の取るべき道なのです。
③ 自分の十字架を背負う道
 人生とは重い荷物を背負って山に登るようなものだ、と聞かされた男が、夜、夢を見ました。自分の背中に十字架が背負わされており、自分の進む道は高い山に続く坂道です。彼は歩き始めましたが、十字架が重く、途中で立ち止まってしまいました。すると向こうから、小さな十字架を背負い、楽しそうにやって来る人がいます。彼は、その十字架と自分の十字架を交換してもらいました。が、その十字架は鉛のように重く、一歩も歩くことができません。しばらくすると、大きな十字架を背負った男が、スキップしながらこちらにやって来るではありませんか。彼は大小に騙されないぞと、その大きな十字架と交換してもらいました。だが、その十字架に押しつぶされてしまい、歩くことはおろか、立ち上がることもできません。彼は、「神様、助けて!」と悲鳴をあげつつ神様に祈ると、程よい大きさの十字架を担いで歌をうたいながらやってきた人が彼を助け、十字架を交換してくれました。彼は「ああ、助かった」と、その十字架を見ると、最初に自分が背負っていた十字架でした。私たちは、主の十字架の苦しみを思い、自分の十字架を背負い、罪と向き合い、救いを宣言される主に従って、イースターへの旅を続けてまいりましょう!

〒253-0006 神奈川県茅ケ崎市堤19-6
TEL/FAX 0467-54-1300
日本キリスト教団  茅ケ崎堤伝道所
牧師 三原 信惠、伝道師 細井 宏一
 更新 : 2023. 3. 11  by km. mn

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