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元 旦 礼 拝 説教「楽しみにしていること」
日本キリスト教団茅ケ崎堤伝道所
2023年1月1日
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マタイによる福音書 第25章31節~40節
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「楽しみにしていること」 要約
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① 靴屋のマルチン |
トルストイ原作の「靴屋のマルチン」をご存じですか?こんな話です。失意の毎日を過ごしていた靴屋のマルチンさんは、ある夜、夢の中で「明日、あなたの所に行くよ」というイエス様の声を聞きました。マルチンさんは大喜びです。でも翌日、マルチンさんが出会ったのは寒そうな外で、雪かきをしている疲れたおじいさんと、寒さにふるえながらお腹を空かせて困っている赤ちゃんを連れた女の人と、りんご売りのおばあさんからりんごを盗んだ男の子だけでした。イエス様は来なかったと落胆するマルチンさんにその夜、イエス様の声が聞こえてきました。「私は今日、あなたの所に行きましたよ」。イエス様は、おじいさん、女の人、おばあさん、男の子の姿で、マルチンさんに会いに来られたのです。イエス様は目には見えませんが、困っている人の姿になって、私たちの所にも来てくださっているのかもしれません。その人に優しくしたら、きっとイエス様は「私に優しくしてくれて、ありがとう」とおっしゃってくださるにちがいありません。 |
② 「羊飼いのたとえ」と「王のたとえ」 |
イエス様は二つのたとえをもって、「終末の時」について語られました。「羊飼いのたとえ」は、当時の習慣を素材にしています。日中には羊と山羊は一緒に放牧されますが、夜になると、それぞれに適した場所(山羊は洞穴や小屋、羊は戸外の囲い)へと分けられます。どちらが良くてどちらが悪いというのではなく、羊飼いは羊にも山羊にも、どちらにも愛情を注いでいるので分けるのです。勿論、羊飼いが羊と山羊を分けることには「裁き」の響きもありますが、そのようにして裁くお方は、愛に満ちた羊飼いイエス様であることを福音書は伝えていると言えます。「王のたとえ」の前半は、「祝福された人たち」について語られています。王は「わたしの父」と言いますが、この言葉によって「王」はイエス様であることが示されます。祝福を受ける人々は、どうして自分がこのような祝福を受けることになったのか分からずにとまどいます。私たちを裁くお方は、自分自身ですら忘れてしまうような小さな愛でさえも見逃されることのないお方なのです。 |
③ 楽しみにしていること |
イエス様を信じる私たちには、とても楽しみにしていることがあります。それは、イエス様とお会いする日が来ることです。その日がいつ来るのかは分かりませんが、イエス様は絶対にまた私たちに会いに来てくださると、聖書に書かれています。だから、イエス様を信じる私たちは、イエス様とお会いする日が来ることを待っています。なぜその日をこれほどまでに心待ちしているのでしょうか?イエス様が大好きだからです。大好きなイエス様にお会いすることを思うと、嬉しくなります。でも、イエス様にお会いしたら、どうしたらよいのかしら。イエス様に何てお話ししたらよいかしら。イエス様は私のことを知っておられるかしら。皆がイエス様とお話ししていたら私の順番は来ないかもしれない。このように、私たちには心配もあるかもしれません。でも大丈夫です。聖書には、イエス様が私たちにお話ししてくださり、私たちのことをよく知っていてくださると書かれています。私たち自身が忘れているようなことも、イエス様は一つも忘れずに覚えていてくださっています。私たちがイエス様にお会いするのを喜ぶように、イエス様も私たちに会うことを喜んでくださいます。イエス様にお会いする日を楽しみに待ちましょう!
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