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アドベント第三主日礼拝 説教「うれしいことの予告」
日本キリスト教団茅ケ崎堤伝道所
2022年12月11日
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ルカによる福音書 第1章5節~25節
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「うれしいことの予告」 要約
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① 二つの奇跡的誕生物語 |
ルカによる福音書は、二つの奇跡的誕生物語で始められています。バプテスマのヨハネの誕生とキリスト・イエスの降誕ですが、二つともよく似た物語です。不妊の女性で年をとっていたエリサベトと、まだ年若いが結婚していないマリアと、両方とも子どもを産むはずのない女性が、ただ神様の恵みと全能の力によって母とされた、と伝えられています。少なくともマリアは天使と会話をかわすという不思議な経験をしています。またエリサベトの夫ザカリアも聖所内で主のみ使いの告げる言葉を聞きました。しかし、ヨハネの母となるべきエリサベトには不思議な声も幻も現れませんでした。彼女は直接には神様のご意志をたしかめる方法をもっていませんでした。けれども彼女は体内の子どもが決して人間の可能性によるものではないことを知っていました。口がきけなくされてしまったザカリアから、たぶん筆談で聖所内の出来事を聞いた時、直ちに信じることができ『主の言葉は必ず成就する。主は私を心にかけてくださった』と感謝しました。 |
② 主の言葉は必ず成就する |
信徒とは彼女のように、直接的な証拠によらなくても、ただ御言葉が示されたときに、これを信じ受け入れることのできる者のことです。『信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです』(ヘブル11:1)と教えられていますが、エリサベトは信仰による希望の故に、マリアに向かっても『主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう』(ルカ1:45)と言えたのです。み使いは、聖所でザカリアに『あなたの祈りが聞き入れられた』と告げますが、実はエリサベトのこの信頼のないところでは、祈りが聞かれることはないでしょう。預言は「まだ…でない」事実が、既成のものとして「もう…なった」と語られます。主の言葉は必ず成就することを確信していない者にとっては、それはどんなに熱心に捧げられても信仰の祈りとは言えませんし、『あなたの祈りが聞きいれられた』との喜びの音信を聞くこともありません。私たちも確実に成就される神様の約束を信じ、祈りのうちに、御子の降誕を待ち望みましょう。 |
③ うれしいことの予告 |
クリスマスという救い主誕生の知らせは、全ての人に与えられる喜びの知らせです。その喜びの時が近づいているということが、先に生まれるヨハネの誕生予告で告げられます。ザカリアとエリサベトの間に生まれるヨハネは「イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせ」(16)、「準備のできた民を主のため用意する」(17)と言われます。来るべき救い主を迎える備えをすると告げられるのです。ザカリアは天使のその言葉を信じなかったので口がきけなくされました。そのため、人々はザカリアに告げられたヨハネ誕生の予告を、はっきりと聞くことができなくなってしまいました。でも、その代わりに与えられたしるしがありました。それは、妻のエリサベトが身ごもったということです。この時代、子どもが生まれるのは神様から与えられる祝福のしるしと考えられていました。子どもが生まれないのは女性にとって非常に辛い思いをさせられることでした。「既に年をとっていた」(7)と言われるエリサベトは長い間、その屈辱に耐えてきたのです。だから、このしるしは彼女にとって神様が自分を見捨てず目を留めて下さったしるしであり、「人々の間からわたしの恥を取り去って下さった(25)という喜びとなったのです。
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