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収穫感謝の特別礼拝 説教「お金持ちと貧しいラザロ」
日本キリスト教団茅ケ崎堤伝道所
2022年11月20日
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ルカによる福音書 第16章19節~31節
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「お金持ちと貧しいラザロ」 要約
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① 貧しい「ラザロ」と「イエス」 |
イエスが、たとえ話の中で、登場人物に名前を付けているのは、ルカ福音書のここだけです。イエスは「ラザロ」と個人名で呼んでいます。だからこれはたとえ話ではないという人もいます。ラザロという名前の意味は、「神は助ける」です。つまり、「神の助けなくして、生きられない者」、「神の助けによってのみ生きている」という意味です。「金持ちの門前に横たわっていた」(20)と記されていますが、金持ちが捨てたパンを食べていても、金持ちの憐憫によって生きていたのではない。「神の憐れみによって生きていた」という意味です。偶然にも「ラザロ」と「イエス」は、名前の意味が似ています。イエスとは「神の助け」という意味です。たとえの中のラザロこそイエスに他なりません。イエスは、私たち人間世界のただ中にあって、貧しい者として馬小屋で生まれました。イエスは、生まれたその時から、金持ちの門前にいた。そして、当時の権力者、金持ちの門前で、十字架の死で、命を捨てるという仕方で、戸の外にいたのではないでしょうか。 |
② お金持ちも死んで…、陰府(よみ)でさいなまれ… |
お金持ちは守銭奴のように利益を追求したとか、人のお金を盗んだわけではありません。残飯をラザロにやる優しい気持ちもありました。なのに、なぜ陰府(よみ)でさいなまれなければならなかったのでしょう?それは自分に与えられた財産を、自分のものと思っていたからです。彼は、紫の衣(優美なおしゃれ着)や柔らかい麻布(贅沢品)を着て、贅沢三昧に遊び暮らしていたと記してあります。これが「陰府でさいなまれた」理由です。神から預けられたものは、神のために返していくべきです。自分を楽しませるためだけに用いることは、不正です。金持ちが「ラザロを生き返らせて…、『自分と同じように全然気がつかないで栄華に暮らし続けていれば、このように陰府でさいなまれなければならないから、分け与えることの必要』を教えて下されば、きっと家族やお友だちも気がついてくれると思う」と言いましたが、アブラハムは「たといラザロが復活して警告しても、彼らは悔い改めないでしょう」と言った。事実、その通りだと思います。
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③ お金持ちと貧しいラザロ |
「わたしの兄弟であるこれらの最も小さな者のひとりにしたのは、すなわちわたしにしたのである。」(マタイ25:40)と、イエスは語られました。イエスのたとえには、厳しいものがあります。(『イエスのたとえ話講解』ヴェルナー・フェンザック著参照。)イエスは、必ずしも金持ちを富の故に非難してはおられません。正当な手段で富を得たならば、決して非難されないのです。むしろ、勤勉は良いことです。このたとえの中の金持ちは、神のことを全く忘れ、無視していたことにあると考えられます。生活に満足しきっていたのです。たとえの最後に「もしモーセと預言者に耳を傾けないなら、たとい死者の中から生き返る者であっても、その言うことを聞き入れはしないでしょう」とある。満腹している人にいくら御馳走を出しても食べません。私たちが神の恵みによって守られ、養われ、生かされていることに気づき、本来の居場所である神のもとに帰ることが悔い改めるということです。自分の力で生きていけるように錯覚して、神のもとに帰ることを拒むならば、結果、炎の中で悶え苦しむことになるのです。一方、ラザロは神に頼るしかなかったのです。私たちは、救いを必要としている者であることに、いち早く気づきましょう!
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