印刷用PDF |
聖徒の日・永眠者記念礼拝 説教「たとえ死んでも生きる」
日本キリスト教団茅ケ崎堤伝道所
2022年11月6日
|
ヨハネによる福音書 第11章17節~27節
|
|
「たとえ死んでも生きる」 要約
|
① イエスは復活と命 |
イエスがマルタとマリアの姉妹のもとを訪れたのは彼女らの兄弟ラザロが死んで葬られてから四日後のことでした。マルタもマリアも「主よ、もしここにいてくださいましたなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう」(21,32節)と愚痴っています。けれども他方、「あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも存じています」というイエスへの信頼も表明しています。このマルタに対してイエスは、「ラザロはよみがえる」と告げますが、マルタはイエスのこの言葉を十分に理解することができません。彼女はそれが「終わりの日の復活」を指していると受けとります。だが、これはただマルタ個人の問題というよりも、マルタが生きていたこの時代のすべての人の確信と言いますか、希望であったと言えます。いずれにしても、イエスはそのように答えたマルタに、更にたたみかけるように言われます。「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。あなたはこのことを信じるか」。 |
② 今、生きている間、イエスを信じるならば |
マルタにとってもマリアにとっても、愛する兄弟ラザロが死んでしまったということは大層ショックでした。その悲しみは極めて深いものであったに違いありません。マルタもマリアも、今イエスがここにおられるのに、もはや失われてしまった過去の時に執着し続け、後ろ向きの発想をしていました。イエスが目を過去にではなくて未来の方に向けさせるために「ラザロはよみがえるであろう」と言われと、今度ははるか遠い「終わりの日のよみがえり」のことでしょうと言います。過去は失われてしまったので仕方ない。未来に望みをかけよう。やがてその日になれば、もう一度愛する者を取り戻すことができる。それによって慰めを得ようと一方で過去への執着に、他方で未来を待つ焦燥へと二つに引き裂かれてしまって、今という時を失っています。主イエスはマルタに、今生きている間、わたしを信じるなら「たとえ死んでも生きる」というと、彼女はイエスの語りかけに圧倒されるようにして、「主よ、信じます」とイエスへの信仰を告白します。
|
③ たとえ死んでも生きる |
人は皆、出来ることなら書き変え作り変えたいという過去を持っています。あの時もし健康であれば、あの時もし私を支えてくれる後ろ盾があれば、もっと良い状態になっていたはずなのに。あの時ああしておけば良かった、こうしておけば良かったと、ぐちる材料を持っています。が、その時というものは過ぎ去ってしまって、時計の針を逆転させることはできません。そうかと思うと、今度は逆に未来にばかり目を向けて、もしああなれば自分はこうする。そういう形で未来に自分を託して、今は、何もしない。そういう生き方もあります。しかし、過去とか未来に関心を示すのは、今のこの時をどう生きるか、どうすればよく生きられるかという観点からなのです。マルタもマリアも兄弟ラザロの死に直面して、思いが過去の思い出と未来への期待とに引き裂かれてしまって、今の時を失っているのです。そういう私たちに向かって、主は今も「わたしがいるではないか。わたしがよみがえりであり、命である」と呼びかけておられる。わたしの言葉を守って今を生きよと招いておられます。この主イエスの招きに応えて生きるなら、私たちは、もはや死ぬことのない命、「たとえ死んでも生きる」というあの命に与からせていただけるのです。
|
|