主日礼拝 説教抄録  2022年度
    
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    聖霊降臨節第20主日礼拝  説教「補い合うために」

               日本キリスト教団茅ケ崎堤伝道所
                      2022年10月16日

  コリントの信徒への手紙(一)第12章22節~26節

「補い合うために」 要約
① 人の視点から見た「マイナス部分」
 先週に続き、「体」を比喩として用いる言葉が続きます。パウロは、なぜ人々にはそれぞれ異なる賜物が与えられており、中には、「弱く見える部分」(22)もあれば、「恰好が悪いと思われる部分」(23)、「見苦しい部分」(24)などあるのかという問いに答えています。覚えておきたいことは、これら「マイナス部分」と受け取れる表現は、人の視点から見た評価にすぎないということです。創世記1:31にあるとおり、神様が造られた命はすべて、神様から見れば「極めて良かった」のです。が、人は、自分と他者を比べながら、その「極めて良かった」部分に優劣をつけ、「弱く見える部分」というレッテルを貼っていくことがあります。教会に集う人々を「体」と表現する時、その「体」を「組み立てられ」た(24)のは、神様であることを忘れてはなりません。そこには、神様の意志があるのです。もし一人で何でもできてしまうならば、誰かと共に生きる必要性を失います。誰かと助け合い、補いあって生きなければ、生きていくことができないということです。
② 助け合う喜びに出会う
 友人とキャンプに行った時の話です。とても楽しみにしていたキャンプで、前日の夜からシッカリと準備をして出かけました。順調にキャンプをしていたのですが、夜になって、ライトを忘れてきたことに気づきました。しかも、友人も同じようにライトを忘れてきていました。私たちは仕方なく、暗闇の中で火を焚きながら、その焚火の明るさだけを頼りに、夕食の準備をすることにしました。そこへ、隣でキャンプをしていた知らない人がやってきて、ライトを貸して下さると言うのです。私たちは「ありがとうございます」と伝え、一晩そのライトを借りることにしました。ライトを貸してくれた人は続けてこう言いました。「缶詰を開けたいのですが、缶切りをお持ちですか?」私はちょうど缶切りを持っていたので、「どうぞお使いください」と言って、缶切りを渡しました。その後は「せっかくですから」と、一緒に夕食を食べました。自分たちが持っているものだけで過ごしていたら、あの楽しい時間は、生まれなかったに違いないと思います。
③ 補い合うために
 今朝の聖書には、人が完璧ではなく、できることも、できないことも、人それぞれにあるということの大切さが伝えられています。私たちは、誰かと自分を比べて、自分の欠けたところを恥ずかしく思ったりすることがあります。でも、その欠けたところがあるからこそ、人は出会うことができるし、助け合う喜びにも出会うことができるのです。教会は十字架を大切にしています。この十字架は英語で「クロス」と言います。そして、この「クロス」という言葉は「交差する」という意味があり、人と人が出会い、関わり合うことを表わしています。イエス様が背負われた十字架は、人が独りで生きるのではなく、「クロス」し、関わり合って共に生きることの大切さを示すのです。欠けたところがなければ出会うことがなかった人たちが、欠けたところを助け合うために出会い、共に生きるのです。欠けていることは、「マイナス」ではなく、「プラス」です。誰かと出会いのチャンスが、そこにあるということです。その「クロス」の中には、イエス様もおられます。人と出会い、関わる時、その真ん中にイエス様の十字架を見つけましょう。人は優劣を競い合うためにあるのではなく、組み合わされ、補い合い、助け合うためにあるのですから。

〒253-0006 神奈川県茅ケ崎市堤19-6
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日本キリスト教団  茅ケ崎堤伝道所
牧師 三原 信惠、伝道師 細井 宏一
 更新 : 2022. 10.15 by km.mn

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