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聖霊降臨節第7主日礼拝 説教「十字架の恵みが見えてくる」
日本キリスト教団茅ケ崎堤伝道所
2022年7月17日
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コリントの信徒への手紙 一 第11章25節~26節
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「十字架の恵みが見えてくる」 要約
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① 罪の贖いのために流された血と捧げられた命 |
先週のお話で、イエス様が「わたしは羊のために命を捨てる」と言われたのを覚えていますか?そのお言葉のとおり、イエス様は十字架にかかられ、私たちのために命を捨てられました。そのイエス様は十字架にかかられる前夜、弟子たちに大切な「約束」をされました。それが今日の聖書箇所に書かれていることです。新約聖書の「新約」というのは、「新しい契約」のことです。それはイエス様の「血によって立てられる新しい契約」(25)です。「血によって」というのは、「十字架によって」ということです。「旧約の時代(古い約束の時代)」は、罪の贖いのために数え切れないほど多くの動物の血が流されました。しかし、ただ一度だけ、イエス様の血が十字架の上で流されたことによって、古い約束の時代は終わり、「新約の時代(新しい約束の時代」がやってきました。「血」は「命」そのものです(レビ記17章)。血を流され、命をささげられたことを信じることによって私たちは、イエス様の新しい命(主の御体)をいただくことができるのです。 |
② 神様からのパンと飲み物 |
パンを食べること、飲み物を飲むことは、人間が生きるために必要不可欠なことですが、単に人間の肉体を養うパンと飲み物だけではなく、神様からのパンと飲み物こそ人を養うことであることは聖書の一貫した示しです。昔エジプトから脱出した人々は、荒れ野を旅するうち、食べ物が尽きてしまいます。人々はモーセに「この事態をどうしてくれるのだ」と詰め寄ります。それに対し神様は、人々にマナという神様の御心の食べ物を与えました。飲み物にしても、飲む水がありません。その時もモーセに詰め寄ります。そこでモーセは神様に示されるままに岩をたたきますと、水が出てきて人々の渇きを潤しました。この水は人々の喉を潤す水ですが、神様の水でした。パンと飲み物、神様の御心と命に至る水、人が日毎の糧としていただくものであり、私たちが日々神様に求めるべきものです。イエス様は十字架にかかられる前夜、パンを食べ、ぶどうの杯を飲むようにと弟子たちに命じられ聖餐を定められました。聖餐は、すばらしい恵みです。 |
③ 十字架の恵みが見えてくる |
私たちは、イエス様が十字架にかかられた姿を見たわけではありません。しかし、聖餐のパンと杯をいただくことによって、十字架にかかられたイエス様の体と十字架上で流された血を思い浮かべることができます。イエス様の愛と恵みを思い起こすことができます。同時に、パンと杯をいただくたびに、イエス様の死を告げ知らせるという教会の使命も思い起こします。教会は、イエス様の十字架によって立てられる新しい契約を結んだ人たちの集まりです。契約は、相手を信頼していなければ結ぶことができません。イエス様は私たちのことを信頼しておられるだけではなく、ご自身の命をささげるほど私たちを愛しておられます。教会は、イエス様が命をささげられたことによって成立した契約を大切にしてきました。又、その契約の恵みを思い起こすために聖餐も大切にしてきました。聖餐は、イエス様の十字架によって立てられた新しい契約に生きる人たちの集まりである教会が、そこにあることを目に見える形で現しています。私たちは聖餐のパンと杯によって、目に見えない恵みを見ることができ、イエス様から愛されていることを思い起こすことができ、キリストの体である一員となっていることを思い起こすことができます。
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