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棕梠の主日礼拝 説教「期待外れ?いや期待以上!」
日本キリスト教団茅ケ崎堤伝道所
2022年4月10日
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マルコによる福音書 第11章1節~11節
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「期待外れ?いや期待以上!」 要約
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① イエス様に対する期待 |
皆さんは「神様」って、どんなお方だと思いますか? 「優しい」「厳しい」「何でもできる」など沢山の言葉がでてきます。どれも間違いではありません。ユダヤの人たちにも、ユダヤ人たちなりの神様に対するイメージが沢山ありました。神様がやがて「メシア」として自分たちの前に現れるというのも、その一つです。メシアっていうのは、王様とか、祭司とか、預言者とかを指す時に使われていた言葉です。いつかその三つを合体させたようなスーパーマンのような存在、そんなメシアが現れて、自分たちを救ってくれる。苦しい生活から解き放ってくれる。そう信じていた人たちがいました。だから、そう信じていたユダヤ人たちは、めちゃくちゃメシアに期待していました。きっと何もかも凄いに違いない。王様がまたがるような立派な軍馬に乗って、さっそうと現れるに違いない。どんどん勝手にイメージが膨らんで行って、ハードルは上がりまくりです。でもイエス様は彼らが期待する王様がまたがる立派な軍馬に乗っては来ませんでした。 |
② イエス様のエルサレム入城 |
ロバに乗って人々の前に現れました。「ロバ」は当時荷物を運ぶために用いられていた動物です。早く走るわけではありません。大きいわけでもありません。しかもここでは「子ロバ」ですから、更に小さかったでしょう。「馬」が強さの象徴なら、「ロバ」はその反対、貧しさの象徴。そんな子ロバに乗ってエルサレム入城されました。その先には十字架が待っていました。聖書がメシアについて「高ぶることなく、ロバに乗って来る」(ゼカリヤ9:9)と語る通り、イエス様は富と権力の象徴である軍馬ではなく、貧しさとへりくだりの象徴であるロバに乗っての入城です。ここからイエス様のエルサレム入城が聖なる目的のためであることが伺えます(民数記19:2、申命記21:3、サムエル記上6:7他)。その際人々は「自分の服」や「葉の付いた枝を道に敷いた」(8)とあります。これは王を迎える時の行動です(列王記下9:13)。そして詩篇118篇25節の言葉、「私たちに救いを」を意味する「ホサナ」(9)と叫び迎え入れるのです。預言通りのことが起きます。 |
③ 期待外れ?いや期待以上! |
イエス様のエルサレム入城を思う時、人々の変わり身の早さを思わされます。つい先日まで「ホサナ」と言っていた人々が、数日後には「十字架につけろ」(15:14)となっている。「同じ口から賛美と呪いが出て来る」(ヤコブ3:10)。他人事ではありません。私たちは神様に対して勝手に期待をしては、勝手に裏切られたと言って腹を立てます。だからイエス様はエルサレムに入られる前、言われました。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(10:45)。イエス様はメシアはメシアでも、人々が思い描くようなメシア(強くて、立派で、お金があって…)ではありませんでした。その点では多くの人たちをガッカリさせたかもしれません。しかしイエス様は、そんな目先の救い(解放)ではなく、もっと根っこにある大きな問題、罪と死の呪いから私たちを救って下さるメシアです。人の荷物を代わりに背負って歩くロバのように、イエス様が私たちの罪を代わりに背負って十字架へと向かって下さいました。イエス様は神の身分でありながら、それに固執せず、私たちの目線にまで下りて共に歩き、死んで下さいました。だから私たちは神の国へと入っていけるのです。
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