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受難節第1主日礼拝 説教「良い知らせ」
日本キリスト教団茅ケ崎堤伝道所
2022年3月6日
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マルコによる福音書 第1章12節~15節
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「良い知らせ」 要約
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① 「愛する子」への霊の導き |
マルコ福音書はマタイ、ルカとは違い、イエス様の姿をバプテスマのヨハネの洗礼を受けるところから描き始めています。イエス様の受洗の出来事は、鳩のようにくだる“霊”と天からの「あなたはわたしの愛する子」という声によって表現されています。それは「父、子、聖霊なる三位一体の神」の出来事として、それぞれが見えるような仕方で、聞こえるような仕方で働かれることを示します。それは同時に私たちの受洗の出来事をも暗示しています。「それから(すぐに)」イエス様は聖霊によって荒れ野へと追放させられます。「荒れ野」はさびしい荒れ果てた地、人の住まない所であり、人が生きることを保証するもののない、「死の陰の谷」(詩篇23)を思わせる命と死が隣接している所です。他方、荒れ野は、メシアが来る(イザヤ40:3)という終末論的な場所でもあります。イエス様は40日(40は苦難と試練の時を表す象徴的な数字)間、荒れ野で試練の時を経験します。この40日は主の復活までの歩み全体に関わる40日となったのです。 |
② サタンからの「誘惑」 |
「誘惑」(ベイラゾー)とは、試み、むしろ、葛藤や苦悩を負うことです。欲望や罪に誘うという意味での「誘惑」とは違います。神は「愛する子」を十字架へと向かわせる、御子はその使命を受諾し、その盃を受け入れて飲むのです。この試練の場は、回復への道筋を示します。「野獣と天使が、一緒にいた」というのはマルコ特有の記事です。「野獣」は悪魔やサタンのシンボルかもしれませんが、野獣がイエス様に敵対的な行動をしたり、誘惑したとは書いていません。ただ「野獣と一緒におられた」と書いてあるだけです。更に、「天使が仕えていた」とあるのも野獣と天使が敵対していたとは書いてありません。イエス様が霊によって荒れ野へと送られ、そこでサタンから誘惑を受けるのですが、そこに野獣と天使がいたという事は、「野獣(試す者)」は荒れ野だけにいるのでなく、いつもイエス様と一緒に居続けられた事を意味します。私たちの信仰生活も、「野獣と共に」の苦しみと「天使たちが仕える」喜びがあり、人はその間で生きているのです。 |
③ 良い知らせ |
すでに私たちは、一年のうち、特にイエス様の苦しみと十字架を思うレントの時を歩んでいます。一体どうしてイエス様が十字架にかからなければならなかったのかを、思う時です。ここでマルコ福音書はイエス様がそのご生涯を通して何を語られたのかを、短い言葉で言い表しました。それが「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」です。一見これは命令のように聞こえますが、実はイエス様からの招きの言葉です。イエス様から私たちに贈られる福音(良い知らせ=グッドニュース)です。「時は満ちた」「神の国は近づいた」だから「悔い改めて福音を信じなさい」というイエス様からの招きの言葉なのです。私たちはその「良い知らせ」がイエス様において、すでに実現しているのだ、ということを知ります。その意味では、イエス様ご自身が福音(グッドニュース)そのものだと言えます。「悔い改める」とは、向きを変えることです。神様に背中を向け、そっぽを向いていた私たちに、神様の方を見て、神様の方に耳を向けて神様の言葉を聞こえるようにしてごらんなさい、と言われます。イエス様からの、神様からの招待状とも言うべき言葉なのです。私たちがそれを喜んで受け取ることができるといいですね。
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