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降誕節第8主日礼拝 説教「土をこねるイエス様」
日本キリスト教団茅ケ崎堤伝道所
2022年2月13日
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ヨハネによる福音書 第9章5節~7節
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「土をこねるイエス様」 要約
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① 信仰も健康も両方大事 |
私の知人に、信仰と健康を並べて「信仰は大事じゃない。健康が大事だ。健康こそ、人間を幸せにする」と言うのが口癖だった人がいます。私は彼に「クリスチャンでない方も、キリスト教主義学校で働いている以上、礼拝と建学の精神を大事にしましょう。それを大事にしないということは、自分の生き方を否定することではないでしょうか」と申し上げたのですが、聞き入れてもらえませんでした。あれから時が経って、彼がクリスチャンになったと知りました。だんだんと目が見えなくなり、とうとう先生をやめたとのこと。元来並べていけない健康と信仰を並べるなら、例えば生まれつき身体的なハンディキャップを持って生まれた方が家にいたらどうか、家族の中に大病したり、看病しなければならない人が出たら、<健康が幸せで、信仰は関係ないという考えは、生涯不幸だ、悲惨だ、私の人生希望がない>ということに気付いたそうです。今は「信仰も健康も両方大事」というのが口癖になったとか。彼の人生は新しく作り変えられました。 |
② シロアムの池に行って洗いなさい |
生まれつき目が見えない人がいました。イエス様は土をこねてその人の目にぬりました。そして「シロアム(『遣わされた者』という意味)の池に行って洗いなさい」と言われました。その人が言われた通りにしたら、目が見えるようになりました。イエス様は世の光として私たちを照らして下さいます。どうしてよいか分からなくなった時、迷ってしまった時はお祈りしましょう。聖書を読みましょう。そうすれば私たちがよく見えるように、イエス様が明るくして下さいます。私たちの善悪の究極の判断模範を与える方はイエス様です。私たちの人生の歩みの上で、理解しがたいことが沢山あります。辛いことが沢山あります。悲しい時もあります。家族の中にいながら、友達の中にいながら、孤独を感じることもあります。が、それらの辛さ、悲しさを共有して下さる方を、私たちはイエス・キリスト(遣わされた者)において持っているのです。私たちといつも共に歩まれる究極的存在がおられる、との確信を私たちに与えて下さるのがイエス様です。 |
③ 土をこねるイエス様 |
「わたしは世の光である」。イエス様の本質や働きを表す重要な言葉です。「唾で土をこねて」という動作は不思議に見えます。遠隔治療よろしく遠く離れても癒す(マタイ8:13など)ほどの方が土をこねるなんて。しかし注意深く読むと、ここに神様の創造の業を見出すことができます。「神は言われた『光あれ』こうして光があった」(創世記1:3)、「主なる神は、土の塵で人を形づくり…」(創世記2:7)という天地創造の出来事の再現です。そしてこの奇跡は肉体的な開眼という結果に終わりません。この癒された人は、ただじっと座らされる状態から、立ち上がって自由に行動するようになりました。物乞いをして、ただ受けるだけだった生き方から、主体的に考え、対話するようになりました。この癒しの前後、弟子や周囲の人々はこの人の障碍は罪の結果だ、と発言します(2;34)。古代のユダヤ教には「不幸や禍=罪の結果」という発想がありました。が、イエス様はその考え方を否定し、むしろ「神の業がこの人に現れるため」と、この人の存在を肯定しました。周囲の人々はイエス様の業とその意味を最後まで理解できません。つまり、真実が「見えていない」のです。一方、癒された当人は「主よ、信じます」と告白するに至りました。
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