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待降節(アドベント)第1主日礼拝 説教「楽しみに待つ」
日本キリスト教団茅ケ崎堤伝道所
2021年11月28日
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イザヤ書 第51章4節~11節
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「楽しみに待つ」 要約
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① 喜びと楽しみを得る |
自らの罪によってバビロンに捕囚されたイスラエルの民は、捕囚された地にあって故郷への帰還を希望として生きていました。勿論、帰還がいつになるか分かりません。が、神さまの愛を信じて期待するなら、いつの事かは分からないけれど必ず神さまはこの苦しみから解放して下さる、という希望を持つことができました。それはかつてアブラハムを導いて歩ませた神(2)、エジプトで奴隷であったイスラエルの民を解放された神(10)であることを思い起こすなら、バビロンからも解放して下さるに違いないと期待することができたからです。が、9節では竜さえも打ち破る神さまの力強さが語られます。即ち待ち望むという行為は心から信頼すべきお方がいるから可能な態度であることが分かります。このことが分かれば「救いはとこしえに続く」(6)ことや「恵みの業が絶えることがない」(同)故に、恐れることもおののくことも(7節)なくなると約束されます。今は嘆きと涙に満ちているけれど「喜びと楽しみを得る」(11)ことができると確信するのです。 |
② 「待つ」という行動 |
待つことを私たちはネガティブにとらえがちです。それは「待っていて辛い」というイメージがそこにあるように思います。でも「待つ」という行動を支えているものが何かがハッキリする時、その行為はネガティブではなくなります。たとえば恋人同士のデートの待ち合わせのように「信頼できる相手」を待つのは楽しいものです。しかも実際に相手と会って「待つ」という行為から解放された時の喜びは、待つことにより更に大きくなります。イスラエルの民はバビロニアという強国によって、家も町も、神さまを礼拝する神殿も壊され、遠く離れたバビロニアに連れて行かれました。「家に帰りたい。神さま助けて」と祈りつつ待ち続けること何十年。イザヤがやって来て民に思い出させます。「思い出せ。エジプトの国で苦しんでいた民を神が助けて下さった事を」。民にとって捕囚からの解放の喜びは奴隷からの救いの喜びでした。そういう喜びである救い主の誕生を待ち続けたアメリカのヘンリー・バンダイク著『もう一人の博士』のお話をします。 |
③ 楽しみに待つ |
カルデヤにアルタバン星博士がいて、救い主が生まれた事を知り、友人の三人とバビロニアのボルシッパの町で落合い、一緒に拝みに行く約束をし、全財産を売ってサファイア、ルビー、真珠を買い、家を出ました。落合場所がすぐそこという所で病人を助ける為サファイアを渡しました。待合時間に遅れた為、友は先にエルサレム→ベツレヘム→(エジプト)へ。「二歳以下の男子は殺す」のヘロデ王の命令があり、ローマ兵が“赤ん坊を出せ”と母親に刀をふりかざしたので、ルビーを差し出して母親と赤ん坊を助けました。それから33年間、彼は救い主を探し続けたのですが、いつも去った後ばかり。今や老人になった彼は人々がゴルゴタへ歩いて行く後について行くと「助けて~」と娘さんの声。人買いの男に最後の真珠を上げて娘さんを助けたとたん、地震が起こり、飛んできた瓦が頭に当たって倒れました。さっきの娘さんがアルタバンを起こして、顔を見ると頭から出ている血は赤ちゃんを助ける為に使ったルビーのように赤く輝いていました。娘さんの涙にぬれた目はサファイアのように光っていました。アルタバンの目から涙がツーッと落ちました。真珠のように光っていました。彼の魂はイエス様と一緒に天国に行ったそうです。
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