主日礼拝 説教抄録  2021年度
    
印刷用PDF


     聖徒の日・永眠者記念礼拝  説教「いのちある限り」

                日本キリスト教団茅ケ崎堤伝道所
                       2021年11月7日

  マタイによる福音書 第25章14節~30節

「いのちある限り」 要約
① 聖徒の日
 死者の埋葬の後で、時を定めて死者を記念することは、初代教会の時代からいろいろな形で行われていました。カトリック教会では「死者のためのミサ」―その典礼の最初の部分の入祭文が「レクイエム・エテルナム」(永遠の休息を)という句で始まるので、普通レクイエムと呼ばれる―そしてプロテスタントでは、記念会と呼ぶ集会を行うのが普通です。これら個人の記念日は日本の通常の家庭で行われる法事と呼ばれるものにあたります。しかし、お盆やお彼岸のような、死者一般を覚える日として聖徒の日があります。基本的にキリスト教では、すべての死者はすでに神の手の中に抱かれているので、死者が迷わず成仏するとか、冥福を祈るという考え方はありません。だから死者を覚えるとか、記念するという言い方をします。プロテスタント教会一般(聖公会を除いて)では、11月第一主日(日曜日)を「聖徒の日」として礼拝が守られます。この場合、使徒というのはいわゆる「聖人」ではなく、広い意味での信徒とか信仰者という意味です。
タラントンのたとえ
 このたとえはキリストの再臨、終末に関わっています。終わりの時を待つのは、ただ果報は寝て待つのでなく、待つ時は奉仕する時、神様のために働く時であると教えています。天国はある人が旅に出る時、僕たちを呼んで自分の財産を預けるようなものだと言います。私たちは皆、神様に呼ばれているのです。一人一人が神様から預かった財産をタラントンと言っているのです。一人に五タラントン、一人に二タラントン、一人に一タラントンを預けたと言います。タラントンはギリシャ語のお金の単位で、英語のタレントの語源になっています。テレビ出演者をタレントと言うようになって日本でも広く使われますが、才能という意味も持つようになっています。元来は単なるお金の単位です。一タラントは六千ドラクメ。一ドラクメは一日の労賃。仮に一日の労賃を一万円とすると六千万円になります。「それぞれの力に応じて」とあります。私たちが、終わりの時の完成を望みつつ生きる時、与えられたタラントンをどう生かすかが問われるのです。
③ いのちある限り
 私たちの人生は果たして幾らぐらい神様から与かった人生でしょうか。このタラントンは浪費するために与えられているのではありません。生かすこと、より豊かなものにすること、しかも再び来られる主の前で、その豊かさを喜んでいただけるような富にすることです。そこに私たちの人生の意味があるというメッセージです。預かったタラントンをどのように築き上げていくか。そこに私たちの人生が決まってきます。私たちの人生の課題はそこにあります。が、それは自分の力で切り開いていくという傲慢さ、おごり高ぶりとは違います。また自分の人生はこんなものだ、自分の才能はこんなものだ、と卑下することでもありません。このたとえで一タラントンを預かった者は、与えられた自分の宝を生かさなかった故に、主人は、「この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ」と厳しい言葉を語られています。なぜ?この人は自分の才能の貧しさにかまけたということだけでなく、主人、つまり神を恐れ信頼していなかったことが問題なのです。私たちは自分の人生をそのまま受け入れられれば幸いです。私たちは、神様に深い信頼を抱きつつ、いのちある限り、失敗を恐れず冒険に乗り出していく。そこに味わいのある人生が生じるのです。

〒253-0006 神奈川県茅ケ崎市堤19-6
TEL/FAX 0467-54-1300
日本キリスト教団 茅ケ崎堤伝道所
牧師 三原 信惠
 更新:2021.11.6 by nk

Copyright 2010 Chigasaki Tutumi Dendosho  All Rights Reserved