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聖霊降臨節第15主日礼拝 説教「百人隊長の信仰」
日本キリスト教団茅ケ崎堤伝道所
2021年8月29日
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マルコによる福音書 第15章37~39節
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「百人隊長の信仰」 要約
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① 十字架上の死 |
とうとうイエス様が十字架につけられる時が来ました。磔刑の準備をしていたのは、ローマの百人隊長です。イエス様は丘の上で十字架につけられました。何か悪いことをしたわけではありません。神様の教えを語り、正しいことを行い、皆がイエス様のことを信じるようになったので、勝手なことができなくなった人たちが、イエス様を殺してしまおうと考えたからです。たくさんの人たちが、十字架につけられたイエス様を見上げていました。やがてイエス様は大声で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫んで、息を引き取られました。その時、十字架から離れたところにあった神殿の内部の垂れ幕が上から下へ真っ二つに裂けてしまいました。不思議なことです。まるで、みんなの心が真っ二つに引き裂かれてしまったかのようでした。神様の独り子として私たちのもとに来られたイエス様が、十字架で殺されてしまったのですから。それを見ていた百人隊長は、思わず、「本当に、この人は神の子だった」と言いました。 |
② 大逆転 |
イエス様の十字架刑の責任者であり、神様の赦しから最も遠いと思われる百人隊長が、信仰に導かれたのです。大きな逆転が起こっています。ユダヤ人ではなく異邦人、しかも、キリストの十字架の死刑執行の責任者であり、十字架の死を最も近くで見た、いちばん信仰を告白しそうにない人が、「本当に、この人は神の子だった」(39)と言ったのです。イエス様の死の瞬間、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けました。これは至聖所を神聖な場所として区切っているものでした。それが「上から」裂かれました。これまで閉ざされていた道が開かれた、ということです。聖なる存在へと至る道が、キリストの十字架によって開かれたのです。十字架上で死なれたキリストの真下で、一つの信仰告白の賛美が生まれました。この賛美はこの後、全世界に広がっていきます。「福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力」(ローマ1:16)なのです。私たちの苦難の叫びを神様は賛美の歌へと変えてくださいます。 |
③ 百人隊長の信仰 |
百人隊長は十字架上で死なれたイエス様に向かって最初に信仰を告白した人、死刑執行責任者だった、と聖書は伝えています。聖書には神様に出会った人、イエス様に出会った人がたくさん出てきます。出会い方は色々です。でも、一つだけ同じところがあります。みんなビックリするような形で神様やイエス様に出会っていることです。百人隊長もそうです。十字架の準備をしている時、まさか自分が神の子と出会うなんて、少しも考えていなかったことでしょう。今ここにおられるお一人ひとりも、みんな、不思議な形で、イエス様に出会っているのではないでしょうか。百人隊長のようにイエス様のことを知らなかった人も、どんなきっかけで「本当に、この人は神の子だった」と言うようになるかはわかりません。神様は、私たちをビックリさせるのが大好きなのかもしれません。信じる者すべてに救いをもたらす神の力が、私たちの苦難の叫びを神への賛美の歌へと変えます。キリストが私たちの罪の苦難を背負い、苦難の叫びを十字架で既に引き受けてくださったからです。「私たちが持っているこの希望は、魂にとって頼りになる、安定した錨のようなものであり、至聖所の垂れ幕の内側に入って行くものなのです」(ヘブライ6:19-20)。
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