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聖霊降臨節第14主日礼拝 説教「泣いたペトロ」
日本キリスト教団茅ケ崎堤伝道所
2021年8月22日
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マルコによる福音書 第14章66~72節
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「泣いたペトロ」 要約
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① ペトロは三度「イエスなんて人は知らない!」と言う |
皆さんは、誰かから「イエス様を知っていますか」と聞かれたらどう答えますか?「知っています」と言うでしょう。でも、もし「イエス様を知っています」と言ったら、他の人たちからひどい目にあうとしたら、どうでしょうか。イスカリオテのユダの裏切りによって逮捕されたイエス様は、十字架につけられる前に捕まえられて、大祭司カイアファの屋敷へと連れて行かれました。イエス様のお弟子の一人、ペトロは「先生はどうなるのだろう」と、遠くから様子をうかがいながらついてきています。「屋敷の中にいる先生は大丈夫かな」と大祭司の屋敷の庭で火に当たりながらペトロが思っていたら、そばにいた女の人が「あなたは、あのナザレのイエスと一緒にいましたね」と言ってきました。驚いたペトロは思わず、「そんな人は知らない」と言ってしまいます。周りにいた人たちもペトロを見て、「あなたはイエスの仲間だ」と気づきました。最後には、屋敷の中庭にいた人たち皆に自分とイエス様との関係を知られ、三度の否認をしてしまうのです。 |
② 鶏は、二度鳴いた |
新約聖書では、イエス様がペトロの三度の否認の予告をされたときに鶏が登場しますが、この予告は他の福音書でもほぼ同じ内容で書かれています。この箇所を注意してみますと、マルコ福音書だけが鶏が二度鳴いた、とあります。マルコ福音書以外はいずれも鶏は一度しか鳴いていません。このことはペトロの否認の予告の所でも同じで、マルコ福音書ではイエス様は「鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」と言っていますが、他の三つの福音書では、「鶏が泣く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」と鶏が鳴くのは一度だけです。マルコ福音書での一度目は、ペトロに対する警鐘であり「がんばれ」との励ましでしょう。でも、がんばれなかった。「イエスなど知らない」「イエスの仲間なんかではない」と呪いと誓いの言葉を口にするペトロの耳に、再び鶏の鳴き声が聞こえた瞬間、ペトロは泣き崩れます。「わたしはイエスの仲間ではない」と繰り返す醜い姿まで、全てイエス様が見通していらっしゃったのです。 |
③ 泣いたペトロ |
「わたしについて来なさい」とイエス様に声をかけられた漁師シモンは手にしていた網を捨て、従いました。ペトロという名前がつけられ、一番弟子としてイエス様と共に旅を続けてきました。「あなたはメシアです」と告白し、「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と豪語したペトロでした。頼りとするイエス様は捕まり、周りに誰も自分の仲間がいません。ペトロがその場を切り抜けるには「知らない」というしかありませんでした。鶏の声が聞こえ、泣き崩れたペトロがどれだけ自己嫌悪に陥ったことでしょう。イエス様に従いきれずに見捨て、泣き崩れたペトロを、イエス様はお見捨てになりませんでした。イエス様は、ペトロがご自分を知らないと言うのをご存じの上で、「わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」と再会を約束されました。イエス様が死から復活された時も真っ先になさったのは、ご自分を見捨てた弟子たちを迎えに行くことでした。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」とおっしゃったとおりです。ペトロの自己嫌悪の涙は、回復への始まりでした。自分に絶望したところから、キリストの歩みは始まります。
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