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聖霊降臨節第10主日礼拝 説教「分けるとふえる」
日本キリスト教団茅ケ崎堤伝道所
2021年7月25日
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マルコによる福音書 第6章34節 ~ 44節
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「分けるとふえる」 要約
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① イエス様と群衆との出会い |
イエス様と群衆との出会いは思いがけないものでした。イエス様ご一行が舟にのって向こう岸にわたるのを見て、群衆は先まわりして岸づたいに走り、イエス様の上陸を待ち受けていたのです。決して近い距離ではありません。ガリラヤ湖の東岸か西岸のどこかかによって異なりますが、バークレーは、その距離を16kmだと計算しています。どんなに早くても3時間はかかります。上陸しようとして、眼前に現われた群衆を見て、イエス様は胸を熱くされたでしょうか。「よく来た」、「それほどまで私を慕うのか」などと喜ばれたでしょうか。そうではありません。イエス様は群衆を憂いて「深くあわれまれた」。この「スプランクニゾマイ」は、「同情する、あわれむ」意味です。イエス様は何を「あわれまれた」のでしょうか。「飼う者のない羊のようなその有様」をあわれまれたのです。彼らは、ただ孤独で淋しい、慰められることを必要としている。信頼できる羊飼い(指導者)が不在である。そのようなみじめさに目をとめ、「あわれまれた」のでした。 |
② イエス様の「あわれみ」が「奇跡」を生み出した |
イエス様のなさった奇跡のほとんどは、からだの癒やしです。病気であったり、悪霊に取りつかれたりしているのは、当人にとっては大問題です。しかし、健康な人には無関心な事柄です。が、空腹は違います。どんな人でもおなかはすきます。食べる物がなければ、最後は死にます。特にイエス様の周囲に集まった人々にとって飢えは身近な問題でした。イエス様はからだに問題を抱えた人だけではなく、飢えという誰にでも平等な苦しみにも心を動かされました。だから、この物語は普遍性を持ち、四つの福音書すべてに取り上げられているのです。また、この物語は分かち合う大切さも教えています。弟子たちにとって、目の前にある食べ物は五つのパンと二匹の魚だけでした。弟子たちも当然おなかをすかせています。この食べ物を群衆に分けたいとは思わなかったでしょう。が、わずかな食べ物であっても、イエス様が祝福し、共に分かち合うとき、大勢の人々を養うことができました。イエス様の「あわれみ」が「奇跡」を生み出したのです。 |
③ 分けるとふえる |
今日の聖書のお話しでは、イエス様が五つのパンと二匹の魚を配って、集まった5千人の人たちがおなかいっぱい食べたって書いてあります。そんなの本当かなって、思うかもしれません。でも、ここで大切なことは、みんなが相手のことを思いやり、自分の持っているものを少しずつ分け合おうとした気持ちです。そうすれば、フードバンクの輪が全世界に広がっていくように、神様はそれを祝福して、大きくふくらませ、それを豊かに用いてくださいます。みんなの心も、体も、本当に満足できるようにしてくださいます。五つのパンと二匹の魚は足し算しても七つにしかなりません。ひとりで食べてしまえば、それでおしまいです。でも、ひとりじめせずに、みんなで分かち合うとき、神様が一緒にいてくださいます。5+2=7ではなくて、たくさんの人が満足できるほどの食べ物になるのです。子どもでもおとなでも、元気な人も病気の人も、みんなごはんを食べて生きています。ごはんを食べられるのは、神様の恵みです。私たちは心も体も神様に養われて生きているのです。でも、世界にはごはんが食べられない人がたくさんいます。みんなが神様の恵みである食べ物を分かち合うために私たちに何ができるか考えていきましょう。
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