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棕梠(しゅろ)の主日礼拝 説教「イエスを神の子と知る」
日本キリスト教団茅ケ崎堤伝道所
2021年3月28日
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マタイによる福音書 第27章32節~54節
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「イエスを神の子と知る」 要約
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① イエス、十字架につけられる |
とうとうイエスは十字架につけられました。十字架が三本立っています。罪を犯した強盗がイエスの右と左に一人ずついます。イエスは何も悪いことはしていません。沢山の人々を救い、人々を愛して下さったイエスが今、お母さんのマリアの目の前で十字架につけられています。そこを通りかかった人々がイエスをののしって言いました。「神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い」と。同様に祭司長たち、律法学者たち、長老たちも「今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば信じてやろう」とイエスを侮辱しました。強盗たちも、ののしりました。でもイエスは、十字架の上に留まり続けたのです。これまでイエスは沢山の奇跡を行ってこられました。が、ご自分のためには一度も奇跡を行っていません。いつでも困っている誰かのために奇跡を行われました。イエスが十字架にかかられたのは、神がそうなさろうと決めたからです。本当に罰を受けなければならないのは神の事を忘れて、自分の事だけ考えている私たち人間なのです。 |
② イエスの死 |
こんな状態が昼の12時まで続きました。すると、全地が暗くなり、その闇が3時まで続いたというのです。3時頃、イエスは大声で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(=わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)」(46)と叫ばれました。神のために働いてこられた神の子が、その神に見捨てられたと思い、悲痛な叫びを上げられたのです。そして息を引き取られました。「そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け…」(51)とあります。神殿の垂れ幕というのは、神殿の中でも最も聖なる場所(至聖所)を仕切るカーテンのようなものです。この中に入れる人間は大祭司だけで、しかも入れるのは年に一度の大贖罪日だけと決まっていました。この垂れ幕は神の領域と人の領域を隔てるものでした。それは罪を象徴するものです。それが裂けたということは、取り除かれたということです。それは、イエスの十字架の贖いが実現した事を表します。神様は、イエスの十字架の死によって、私たちの罪を赦して下さったのです。 |
③ イエスを神の子と知る |
神の子がなぜ十字架にかからねばならなかったのでしょうか?神の子を十字架にかけてまで私たちの罪を赦そうと神が願われたからです。それほど人は神に愛されているのです。自分のした事の責任を取るのを償いと言います。それに対し、自分には何の責任もないのに誰かに代わって責任を取る事を贖いと言います。イエスは私たち人間に代わってその罪を負って下さったのです。その罪を負い切った時、神から見捨てられました。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」との叫びは、本当に悲痛です。神にいちばん近くおられる神の子が神から顧みられないというのですから。でも、それは神の贖いが実現したことを表しています。本当なら私たちが神に見捨てられるはずだったのを、イエスが代わって下さった事を表しています。イエスが息を引き取られた瞬間、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けました。これは神との隔たり、罪が取り除かれた事の象徴であると共に、誰もが自由に神に近づきうる事をも表しています。神の子イエスはこの隔てを取り除くために世に来られました。そして、もっとも低い所から私たちを支えて下さいます。それを見て、人は「本当に、この人は神の子だった」と言えるのです。 |
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