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受難節第4主日礼拝 説教「本当の姿を見る」
日本キリスト教団茅ケ崎堤伝道所
2021年3月14日
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マタイによる福音書 第17章1節~13節
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「本当の姿を見る」 要約
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① 自分のようにしか人が見えない |
私たちは、お互いに人の事が、自分のようにしか見えませんし、また考えられないものです。少年少女の日から青年時代、そして今も、やはり、自分の計りでしか、人の事を計れません。いくら長い様々な経験を積んできたといっても、結局、自分の計りですべてを計ってしまいます。言い換えると、私たちはいくつになっても、自分の主観から離れられません。かえって長い経験による自信として「かたくな」になっている場合があります。勿論それはそれで、仕方のない事、いや意味のある事であるのですが…。もし、それでもって、自分は間違いなく、いわゆる客観的に正しくその人とその人の事を把握し評価していると信じているなら、それは恐ろしい事になります。サタン的だと言ってもよいでしょう。その人の実像というものは、そう容易に把握できるものではないし、またその真価を決める事もできません。過去の歴史的な人物についても「自分はこう見る」とは言えても、人とその生涯の真相は、“神のみぞ知り給う”という他ありません。 |
② 「山上の変貌」の出来事 |
イエス様は、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを連れて高い山に登られました。三人はどうしてこんな所に自分たちが連れて来られたのか不安な気持ちでいっぱいです。すると、とても不思議な事が起こりました。弟子たちの目の前で、イエス様の姿が変わってしまったのです。どんな風に変わったかって?イエス様の顔は、太陽のように輝き、衣は、光のように白くなったのです。更に突然、二人の人が現われました。大昔に神様に仕えたモーセとエリヤでした。その二人がイエス様と話し合っていると光輝く雲が三人を隠し「すべてイエス様に聞きなさい」という声が天から響きました。モーセとエリヤは旧約聖書を表します。メシア(救い主)であるイエス様を中心にして三人が話し合う事で聖書に照らしてイエス様の業を見るのです。弟子たちはこの光景を見て、喜びながらも何をどうしてよいか分かりません。イエス様は弟子たちに「恐れることはありません」とおっしゃり、「今見た事は私が復活するまで誰にも言ってはいけません」と命じられました。 |
③ 本当の姿を見る |
山で祈っている時、弟子たちの目前で、イエス様が今までと全く違う栄光に輝く姿になられた事は、イエス様がご自分の十字架における苦難と復活とを語られた直後の出来事であった事を忘れてはなりません。イエス様がこれから行う事が神の御心に叶うものである事を、この栄光の姿は先取りして見せてくれたのです。神様が言われた「これはわたしの愛する子…これに聞け」という言葉は、イエス様が洗礼を受けられた直後に聞こえてきたのと同じ言葉です。イエス様が「神の子である」という宣言です。神様は御子を遣わして救いの業を完成させられます。これ以上に輝かしいことはありません。イエス様が苦しむ姿なんて見たくありません。でも、イエス様はご自分が苦しむことで、私たちが苦しまないように、私たちの罪が赦されて、私たちがもっと神様に愛されるようにと願われたのです。神様はこうして、イエス様の本当の姿を弟子たちに見せました。イエス様がなさろうとしている事が正しいことを伝えるためです。そして、イエス様が復活された後、イエス様が私たちのために十字架にかかって下さった事、そして本当の救い主である事を皆に伝えてほしいからです。私たちも、イエス様は本当に神の子だと皆に伝えましょう! |
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