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クリスマス礼拝 説教「インマヌエル・アーメン」
日本キリスト教団茅ケ崎堤伝道所
2020年12月20日
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マタイによる福音書1章23節
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「インマヌエル・アーメン」 要約
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① 神は愛である(ヨハネによる福音書3章16節) |
クリスマスは、天にいます全能の神が私たち罪人を救い、新しい命を与えるために、この罪と汚れの地にまで降りてくださった事ですが、それは、単に助けの手を伸ばしたとか、同情をもって眺めていたというのではありません。ヨハネ福音書はこの事実を「言は肉体となって、私たちのうちに宿った」と書きました。「宿る」とは「幕屋を設けて住み込む」とか「滞在する」と訳すべき言葉です。仮に現らわれたのでも、ちょっと立ち寄ったのでもなくて、人間の中に入って、人間の全てを味わい尽くされたという事です。神が人間の手も届かぬ天のかなたにただ神として君臨し、冷然と支配し、裁き、また恵みを与えるというのではなく、一人の人間、ナザレのイエスとなって、私たちのもつ一切の労苦や悲しみをそのまま経験し、背負ってくださったという事です。その事は二千年の昔にただ一度だけ起こった事ではありません。「神の愛」はあの日あの時一度限りのものではなく、いつも「今、ここに」神が常に共にいてくださるという事なのです。 |
② 永遠の命を得るため |
ヨハネによる福音書3章16節は更に続けて、「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」と、愛の理由を記しています。即ち、主イエスが馬小屋に生まれ十字架に死なれたのは(主イエスを信じる人に)永遠の命を与えるためであったというのです。罪の力に支配されているために人々を傷つけ、神に背を向ける人々を罪の力の束縛から解放し、死の力に支配されているために、自分の人生の全てに空しさを覚え、運命的虚無に生きる人々を死の力の束縛から解放するために御子イエスが馬小屋に生まれ、十字架に死なれたのだと、告げるのです。「永遠の命」というのは、死後の事ではありません。今ここにいる私たちの現在の生き方、毎日の生き方が、永遠の命を願う生き方をしているかどうかの問題なのです。人は本当に永遠の命を求めているのでしょうか。たとえ今の人生が悩みに包まれて苦しみの只中にあったとしても、死後の課題、天国での課題に目覚めて生きているか否かの問題であるのです。 |
③ インマヌエル・アーメン |
アーメンという言葉は「しかり、その通りです」という意味です。新共同訳聖書では「よくよく言っておく」と訳されています。インマヌエルは「神がともにいます」という意味です。旧約聖書ではイザヤ書にしか出てきません。7章14節、8章に2回出てくるだけです。新約聖書では1か所だけマタイ1章23節に出ています。マタイはインマヌエルで始まってインマヌエルで終わっています。インマヌエルとは、苦痛を訴える重病人の側で、おろおろしながら看病する家族が「共にいる」という事ではありません。「神がともにいます」とは二千年前のベツレヘムの馬小屋でただ一度だけ起こった事ではありません。「神の愛」は、あの日あの時だけ起こって、現在の社会に重荷を負って呻いている私たちとは無関係の出来事であったというなら「われらと共にいます」は嘘になってしまいます。インマヌエルとは、私たちが礼拝する時だけでなく、働く時、学ぶ時、そして遊ぶ時にも、いつも「今ここに」神が常に共にいてくださるという事です。クリスマスは主イエスが私たちのためにこの世に来られたことを記念する喜びの日です。コロナ禍の広がる暗い時代になったからこそ、「世の光」なる主をお迎えする事は特別に意義ある事なのです。
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