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アドヴェント第一主日礼拝 説教「人となった神の愛」
日本キリスト教団茅ケ崎堤伝道所
2020年11月29日
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ヨハネによる福音書1章14~18節
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「人となった神の愛」 要約
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① 神が“人”になる |
ある人は言います。「人が神に成るというのは解るけれど、神が人に成るというのは納得できない」。確かに日本では偉人や豪傑や戦死者が神として祀られています。ローマやエジプトでも同様です。更にこれらの国々では、天皇や皇帝が神と呼ばれ、礼拝が要求されました。これは、人間の中の優れた者が神に昇格する、即ち人が神に「成り上がる」わけで、神が人にまで「降下する」「成り下がる」ということは考えられません。仏教」でも同様です。人間が仏様に成るのです。「成仏する」と言います。仏が人になったりはしません。キリスト教とは、決定的に違います。もし人が神に成ったのなら、その神は人を救う力を持っていません。けれど、私たちが信じている神は、その限りない愛の故に「人と成って」地上に降り、ベツレヘムの“飼葉おけ”の中に生まれて下さいました。私たちは“飼葉おけ”の中に人と成って下さった主を固く信じて、「貧しきうれい、生くる悩み」を持つ人々に、手を差しのべ、一体となって、生きていきたいと思います。 |
② 人となった神 ―受肉の言― |
“人となった神”というのは、“信仰告白”の言葉です。その言葉の源にはイエス・キリストへの愛と、賛美と、感謝と、祈りがある筈です。讃美歌21-280番にあるように「馬槽のなかに うぶごえあげ…」その生涯を「こよなき愛」において生き抜かれたイエス・キリストを信じる故にこそ、「この人を見よ、この人こそ、人となりたる、活ける神なれ」と告白し得るのです。ヨハネ福音書の序文は、この事を「言は肉となった」と表現しています。そして、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」のです。この世は棄てられるべきものではありません。救われるべきものです。キリストご自身、この世の人々を極みまで愛され、人々から棄てられても、人々をお棄てにはなりませんでした。ロゴスなるキリストは肉体となることによって、肉体を限りなく尊いものとされました。神の言はここで聞くだけでなく見えるもの、触れるものにまでなったのです。それ故キリストの命に与かる場はこの肉体においてなのです。 |
③ 人となった神の愛 |
宗教の中には「教え」だけがあって、その教えを与えた方は非歴史的存在であるとか、架空の人物というものがあります。けれどもキリスト教は違います。歴史的なナザレ人イエスを抜きにしては私たちの信仰は成立しませんし、「言が肉体となった」事実を取り去っては、教養も神学も、礼拝も芸術も、すべてが空しくなってしまいます。勿論、永遠で無限の神は、有限の人間にとっては認識の範囲を超えています。把握したと思うものは既に神ではありません。「神を見たものはまだ一人もいない」のです。が、神はその恵みにおいて、人間の五感に触れるもの、私たちの目撃にたえるものとして、永遠の言が肉体となって私たちの間に宿り、“飼葉おけ”に生まれさせられたのでした。確かに「見ないのに信じる人は、幸いである」(20:19)のですが、疑うトマスを不信仰者として教会から破門放逐するかわりに、その手にある釘の跡を示して教えられたのは、主イエス・キリストの愛です。このように、福音は常に具体的(肉体をとっている)です。“飼葉おけ”の御子の中に「恵みとまことに満ちた」神の愛と御言の具体化を見出し得る者は幸いです。私たちは、「人となった神の愛」を信じて、永遠の命を与えられる<幸い>を身につけましょう!
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