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降誕前第6主日礼拝 説教「キリストの時、私の時」
日本キリスト教団茅ケ崎堤伝道所
2020年11月15日
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ヨハネによる福音書7章1~9節
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「キリストの時、私の時」 要約
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① イエスの兄弟たちの勧め |
イエスの兄弟たちとは、イエスの弟たち、即ちマリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモン(マルコ6:3)です。彼らは血を分けた親しい兄弟という立場から、当時の状況、つまりガリラヤでの五千人の給食以後、イエスが「わたしは天から下ってきたパンである」(6:41)と言明された事から、ユダヤ人との間に論争が生じ、その論争を契機として「多くの弟子たちは去っていって、もはやイエスと行動を共にしなかった」(6:66)を知り、また人々のメシア待望の責任を感じ、イエスにエルサレムに行き、沢山の群衆の前で、「自分をはっきりと世に示しなさい」と勧めました。時は、ユダヤの三大祭り中、最大の仮庵祭の時。辺境のガリラヤでなくエルサレムという大都会。多くの群衆が集まる時。弟子を新しく募るに絶好の時。イエスの奇跡は大勢の人々の注目を浴び、彼は勢いを盛り返し、歓呼と共に救世主として迎えられるに違いない。実に綿密なスケジュールの提案でした。そうした事は、昔も今も、時の設定や選択のもとに行う事ではないでしょうか。 |
② 主イエスの応答 |
弟たちの勧めに対して、主は「私の時はまだ来ていない」と答えました。キリストは神が自分の働きのために時を定めておられることを確信し、その時が近づくのを見つめながら、祈りの中に待っておられました。だから、その時がやって来るまで、主は「わたしの時はまだ来ていません」(ヨハネ2:4、7:6、8:20)と言われ、ヨハネ福音書では13章になって初めて「イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り」と記されており、ゲッセマネでは「時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう」(マルコ14:41b~42a)と言われるのです。主イエスの弟たちが「いつか」「いつでも」といった無性格の時間を生きていたのに対して、キリストは、「ただ一つの時」「かけがえのない時」を見つめながら生きていました。「あなた方の時はいつも備えられている」と言われているような時に安住するのでなく、目を覚ましていましょう! |
③ キリストの時、私の時 |
自然界には時があり、時が来れば花が咲き、時がくれば果実が稔り、時が来れば葉が散ります。私たちの人生も、また神が定められた時があります。その時が来るまでは、どんなに努力しても道が開けないと感じる事があります。私たちが栄えるのも、また衰えるのも、生も死も、すべて神の定められた時のもとにおかれています。私たちは、神が私たちのために備えられた「時」を見つめながら、日々を過ごさなければなりません。聖書には、「その日、その時は誰も知らない」と記されています。あなたは、いつ来るか分からない終末の日、最後の審判の時を見つめながら、自ら備えて日を過ごしていますか。それとも、今までと変わらない時の繰り返しをしていますか。ギリシャ語には「時」を示す単語が三つあります。英語のアワーの語源「ホゥラ」は一日に何時間あるというように用います。「クロノス」はギリシャ神話の中に出て来る次々に子供を生んではそれを次々に殺してしまう怪物の名前です。クロノジー(歴史)とかクロノメーター(正確な時計)の原語です。「カイロス」は神の定めて下さった時を指す言葉です。主は「カイロス」を見つめて「ただ一つの時、かけがえのない時」を生きました。キリストの時を私自身の時とするため、祈りながら絶えず備えて待ちましょう!
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