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降誕前第7主日礼拝 説教「信じなさい」
日本キリスト教団茅ケ崎堤伝道所
2020年11月8日
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ヨハネによる福音書14章1~14節
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「信じなさい」 要約
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① イエスは言われた。「わたしが道である」 |
6節の「道」とは父なる神に通じる道の事です。神はただ仰ぎ見るものではなく、その道を通って行けば神の御許に行く事ができる神。この言葉を導き出したのは使徒トマスです。後にフィリポも同様にお願いしています。トマスもフィリポも弟子です。弟子は先頭を歩かれる主イエスのあとについて行き、主の背中を見ていれば安心です。ところがその主がいなくなると言い始められた。主イエスと一緒に歩く道すがら盲人の目を癒し、何千人もの人々にパンと魚を与え、涙に暮れている未亡人に「もう泣かなくともよい」と言って柩に横たわった子を呼び起こされた主イエス。ラザロが死に瀕した時、ラザロの姉マルタ、マリアは「あの時、主がいて下さったなら」と訴えました。愛する者が苦しんでいる、自分の声も手も何の役にも立たない、主がここにいて下さったならと思う。誰もが同じ思いです。主イエスは《神を信じるための、何の手がかりがなくても構わない。私を頼って神を信じなさい》。今ここで教会と私たちにそう呼びかけています。 |
② あなたにも「神への道(永遠の命へ通じる道)」が備えられ ている |
トマスはまだ「神への道」を見つけていません。「父の家には住む所がたくさんある。だから、あなたがたのために場所を用意しに行く」と主は仰いました。ここに「住む所」と訳している言葉は名詞としては、ここと、あと一か所に出てくるだけです。が、動詞はヨハネ福音書15章に、<わたしはまことのぶどうの木>わたしに「つながっていなさい」「つながっていなければ」「つながっていながら」と、頻繁に出てきます。これは皆、原文では「とどまる」という言葉です。「とどまる」という言葉が名詞になると「住む所」となるのです。しかも、ここでは、トマスに対しては、トマスが愛の掟を守る以前に、既に<とどまる場所が父なる神のもとに用意されている>と言われました。父の家には、たくさん住む所があるという事は、神の愛が、既にトマスを捕えているという事です。誰もはみだしていない。すべての者の住まいが用意されている。しかも私たちが道を知る前に教会にもあなたにも神への道が備えられているのです。 |
③ 信じなさい |
放蕩息子を『まだ遠くに離れていたのに…走り寄り』抱いて下さる父なる神です。主イエス・キリストは世の終わりまでいつも共におられるのです(マタイ28:20)。だから主は不安におののく弟子たちと私たちに『神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい』と仰り、『わたしは、あなた方を”みなしご”にはしておかない』と約束されました。更にキリストは「命のパン」として保証を与え、「世の光」として導き、「よい羊飼い」として守り、「ぶどうの木」として繋がる者に実りを与えられます。主は「復活」であり、「道、真理、命」です。この主が「わたしに従いなさい」「わたしに聴きなさい」「わたしを信じなさい」と言われます。この不安と孤独と恐怖の世界で、これ以上の確かな保証と解決があるでしょうか。私たちの中にある信仰をいつも気づかせて頂きましょう!本当に私たちの中に住む主イエスご自身に他ならない事を確信させて頂きましょう!戸惑い、立ちすくみ、後戻りさえしたくなってしまう勇気のない私たちを命の望みの中に立たせて頂きましょう!主の十字架の言葉は滅びゆく者には愚かであり、つまずきであっても、救いに与かる私たちには、またとない力であり、保証であり、解決です。固く信じてご一緒しましょう!
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