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聖霊降臨節第21主日礼拝 説教「弟子の足を洗う」
日本キリスト教団茅ケ崎堤伝道所
2020年10月18日
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ヨハネによる福音書13章1~11節
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「弟子の足を洗う」 要約
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① 弟子たちを愛される主イエス |
ヨハネ福音書は13章から第二部に入ります。13章には、「ヨハネ福音書版 最後の晩餐」とも言える記事が記されています。特に、洗足の記事はヨハネ独特のものです。1節に、主イエスは「弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」とあります。ここに主のお心が示されています。私たちにとって、生きている時も、死ぬ時にも、唯一の慰めは、「私はもはや自分のものではなく、身も魂も全存在がキリストによって贖われて、主イエス・キリストのものになっている」事です。「この上なく愛し抜かれた愛こそ、わが慰めである」のです。しかし、続いて、ユダの裏切りがあります。主はご自分の弟子に裏切られるのです。しかもその裏切りの背後に悪魔が働いていると主は見られます。人は誰も、悪魔の虜になりがちだと見ておられます。主を受け入れなかった主ご自身の者、その代表であるユダの裏切りの中で、「究極の愛」を尽くされます。主はユダの足を洗われました。勿論ペトロの足も洗われました。主は弟子たちをこの上なく愛されたのです。 |
② ジョットーの「洗足の絵」 |
北イタリアのパドゥアにジョットー礼拝堂という小さな教会堂があります。古い時代の画家、ビザンチン文化の匂いを漂わせているジョットーが「イエスの生涯」を描いた絵がズラリと掲げられている中に、洗足の絵もあります。主イエスが真ん中にひざまずいてペトロの足を洗っておられる。片手を上げておられる。それは祝福の手のようにも見えますし、ペトロの罪の心を押しとどめるようなしぐさにも見えます。絵は人によって色々思うでしょうが、私にとって忘れられないのは、イエスの背後にいる一人の弟子がサンダルを脱ぐしぐさをしている事です。主イエスに足を洗っていただく準備をしているのです。その弟子は、主イエスとペトロとのやりとりを聞きながら、そういう事ならば、私も足を洗っていただこうと準備にかかっているのです。私は、急いで愛の手の中に差し入れる準備に入っている者の姿に、おそらくこの絵を描いたジョットーの信仰が現れているのだろうと思ったのでした。今も忘れ得ない絵の一つです。 |
③ 弟子の足を洗う |
ユダヤ人は食事の前に「足を洗う」文化です。ユダヤ人の「洗足」というのは奴隷の仕事です。しかも異邦人の奴隷の仕事でした。つまりユダヤ人の血統を誇る奴隷は、その血統の故に、もしユダヤ人でない奴隷がいるならば、自分はそんな汚らわしい事はしない、と言ってユダヤ人以外の奴隷に、その仕事をさせるほど、洗足は卑しむべきものでした。が、同時に、これは愛の業でもありました。例えば、息子や娘たちは自分の親が席に着く時、親の足下にひざまずいて足を拭ってあげる。そして又、一日の労働に疲れ果てて帰ってきた夫の足を拭うのは、妻の務めでした。そのように洗足は、報いを望まないで行う奉仕であり、究極の愛の業でありました。私たちも愛する者の足が汚れていれば、ひざまずいて洗ってあげます。愛と奉仕の姿です。主人であるイエスが、自分のものである「弟子たちの足を洗う」。それは、力衰えてただ病床にいる他ない両親に仕えて、汚れた体を拭ってあげる子供たちの姿にも似ています。愛の表現です。私たち一人一人も、主イエスに「愛し抜かれている」者です。主は十字架と復活おいてその愛を完成されました。どんなに罪深い者でも、「イエスをキリスト」と信仰告白すれば救われます。平安が与えられます。
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