印刷用PDF |
聖霊降臨節第20主日礼拝 説教「まことの王イエス」
日本キリスト教団茅ケ崎堤伝道所
2020年10月11日
|
ヨハネによる福音書12章12~19節
|
|
「まことの王イエス」 要約
|
① エルサレムに迎えられるイエス・キリスト |
ヨハネは、マタイ、マルコ、ルカよりも、歴史のイエスにいっそう近い原資料(Grundschrift)を用いてこの記事を書いています。共観福音書で「棕櫚」とあるのをヨハネは「なつめやし」(13)と記します。なつめやしの木はこの地方でいつでも見ることができますし、その実はマーケットにいつでも売り出され、小さな実で美味しいです。枝の長い幅の広い大きな葉です。エルサレムに近い町で福音書に登場してくるエリコの町がありますが、この町の別名がなつめやしです。それほど木が多かった。ここに登場する群衆はエルサレムに上って来る巡礼たちです。旅する者は自分の孤独を思い、旅の中でその孤独を更に脅かす死と対面せざるを得ません。巡礼者の心は旅の中で深くなり、旅に出て初めて知るような人生の意味を知ります。何よりも死と命を思わざるを得なくなります。このような死を超える命を思い続けていた群衆は、ラザロを墓から復活させたイエスがエルサレムに来られると聞き、なつめやしの枝を振って迎え、歓声をあげ続けました。 |
② 「ホサナ、どうか主よ、私たちに救いを」と叫ぶ群衆(12~15節) |
群衆の「ホサナ…イスラエルの王に」という叫びは「万歳…私たちの王よ」と解釈できます。主イエスがラザロを墓から生き返らせたということを、彼らは聞いたからです。 歓呼の声をあげて群衆が主イエスを迎えるのを見たファリサイア派の人々は言います。「もう何をしても無駄だ。世をあげて人々はあの男についていった」。 群衆は爆発的な力をもっています。それは政治を倒すことだってあるのです。しかし同時に、群衆は愚かでもあります。数日後、人々は主イエスを総督ピラトのもとに連れて行き、十字架につけよ、と迫りました。正義と法に従う事が総督の務めですが、総督ピラトは群衆を恐れて、イエスを引き渡してしまいました。今日、私たちもまた、群衆の力と愚かさに直面しています。今、「一歩立ち止まって考える事」、「イエス・キリストを通して神のお心を知る事」、「小さくても確かなつながりに生きる仲間がいる事」の三つをこの聖書から示された思いが致します。この三つを大切にご一緒して参りましょう! |
③ まことの王イエス |
今一度振り返ってみましょう。これまでの主イエスの歩みはどうだったでしょうか。たとえば6章、主イエスが五千人にわずかなパンと魚を分ける奇跡をなさった時、人々は<これこそ自分たちの王とすべき方>と信じました。するとイエスは「人々が来て自分を<奇跡を行う力ある王>にするために連れて行こうとしているのを知り、一人で山に退かれた」とあります。ならば、ここでもイエスはさっさと退いてしまわれたでしょうか?否。主はロバの子を見つけて、お乗りになり、<まことの王の姿>を示されました。権威ある王、力を誇示する王が乗るような大きな馬ではないのです。福音書は、「ホサナ、主の名によって来るものに祝福があるように」と人々が歌ったと誘います。平和と祝福をもたらす王です。私たちも信仰の歌として歌っていく事ができればと願います。<神が私たちの心を開いて下さり、私たちが主イエスを「まことの王イエス」として迎える>。それがどんなに豊かな恵みをもたらすものかを実感させて頂きましょう!これまで私たちは幾度、み子を平手打ちするような傲慢無礼な罪を犯してきた事でしょうか。許されざる罪を神は主の十字架の故に赦し、信頼に足る者として造り変えて下さいます。信じましょう!
|
|