主日礼拝 説教抄録  2020年度
    
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    聖霊降臨節第17主日礼拝 説教「イエス、涙をながす」

日本キリスト教団茅ケ崎堤伝道所
2020年9月20日

 ヨハネによる福音書11章28~37節

「イエス、涙をながす」 要約
① マリアの恋とマルタの愛
 マルタはマリアに「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちします。マルタは、なぜ普通の声で言わないで、「小声で言った」(口語訳)のでしょうか。耳打ちする。ひそひそ囁く。それは話の内容を他の人に知られたくない時です。マルタはマリアをこっそりイエスに会わせたかったのでしょう。マリアはイエスに特別な感情を抱いている。目をハートマークにしてイエスの足下に座り、ありったけの思いを込めて香油を注ぎ、自分の髪でイエスの足を拭う妹の恋する気持ちをマルタは大きな愛で包み、マリアの思いを叶えてあげたいと心を砕いているのです。その気持ちが、イエスを村の外に留め、マリアにこっそりイエスの来訪を知らせるという行動になったと思われます。実際には、村人たちがぞろぞろ付いてきたので、マルタのもくろみは失敗してしまったのですが。こう考えれば、この後の香油注ぎの場面も、対立的に捉えられがちなマルタとマリアの関係が、限りなく暖かく、美しく、自愛に満ちたものになるのではないでしょうか。
「主にひれ伏して拝む」
 マリアはこの耳打ちを聞くと「すぐ立ち上がり、イエスのもとに行った」と記されています。驚きです。マリアは静かな、神の言葉を傾聴する人、マルタは動的、ダイナミックな行動的な人という印象ですが、マリアも重大事に関しては、非常にすばやく対応できる人物であるということです。マリアは言います。「主よ、もしあなたがここにいて下さったら私の兄弟は死ななかったでしょう」(32節)。この言葉は、お気づきのように21節のマルタの言葉の繰り返しです。二人の違いは「主にひれ伏して拝む」という、マリアの行為がマルタと違うところです。当時、地中海世界に沢山いた「神的人」、セイオス・アネール、単にイエスを奇跡行為者とみる信仰から、マリアは突き抜けているという事です。主イエス降誕の時、占星術の学者たちが東方からやって来て、生まれたばかりの神の子イエスを、ひれ伏すために、即ち、礼拝するために遥々と何千キロメートルの道を星に導かれてやって来たという描写と内容的には同じです。
③ イエス、涙をながす  
 今朝の中心は「イエスは涙を流された」という新約聖書中、最も短い一節です。ギリシャ語原典は冠詞を入れて僅か三語です。しかも「ダクリュオー」というギリシャ語で表現しています。新約聖書中、ただ一度、この一か所、この場所にしか出て来ない珍しい語です。新約聖書に「泣く」は、「クライオー(泣き叫ぶ)」、「オデゥロマイ(口に出す悲しみ)、「スレネオー(哀悼の表現)」、「アララゾー(号泣する)」、「ステナゾー(うめく)」が出てきますが、この「ダクリュオー」は上記のどの言葉にも当てはまらない独特な表現です。マルチン・ルターのドイツ語聖書では<イエスは目に涙をいっぱい浮かべた>となっていて、この訳は宗教改革者ルターの深い信仰的感情を表わしたものとして有名です。主はラザロの墓に向かいながら静かに涙を流されました。それは単なる感傷の涙ではありません。人間の究極の悲しみは愛する者の死です。この死の脅威の前で、どれほど多くの人が涙を流した事でしょう。しかも大地は涙を吸い取るだけで人間にとって何ら救いになりません。が、主が泣かれたのは、その涙によって人間の目から涙をぬぐい去り、本当の救いを得させます。もはや泣き続ける必要のないようにされました。ラザロの復活の奇跡は、主の救いの徴なのです。

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日本キリスト教団 茅ケ崎堤伝道所
牧師 三原 信惠
 更新:2020.9.19 by nk

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