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聖霊降臨節第15主日礼拝 説教「死に終わらぬ私の死」
日本キリスト教団茅ケ崎堤伝道所
2020年9月6日
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ヨハネによる福音書11章1~16節
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「死に終わらぬ私の死」 要約
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① この病気は死で終わるものではない(4節) |
11章はヨハネ福音書が主イエスの「しるし」と呼ぶ神のみわざの最後のものです。ここでは、この後、これをめぐって様々な会話が続くわけではなく、2節に「このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった」と12章の先取りをしています。更に12章では、主イエスがエルサレムにお入りになり、群衆は歓呼して迎えるという、ラザロの甦りの出来事の残響がエルサレム入城まで残っている。しかもその間、11章47節では最高法院が招集され、会議が行われ、言わば欠席裁判で主イエスが裁かれ、遂に、ここでイエスに対する判決が既に下されてしまう。ラザロの甦りの出来事から、既に主イエスの十字架の受難
が始まっている。ラザロの復活は主の復活の先取りです。ラザロを生き返らせることによって、主イエスご自身は死に定められました。4節「この病は死に至らず」は、この病気は死で終わる。だがそれで終わらないのです。原文の直訳は「この病気の終わりは死ではない」という表現です。 |
② ラザロの物語は、愛の物語です |
5節に「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」とあります。3節にはこんな言葉もあります。「姉妹たちはイエスのもとに人をやって、『主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです』」と言わせた。11節にはこう記されています。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く」と。「わたしの友ラザロ」ではなく「わたしたちの友」なのです。弟子たちをも含めて、ああ、あの男はわたしたちの友人なのだと言われたのです。15章に至りますと、主はこう語っておられます。12節「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」。ラザロは私の友人、私たちの友人だと主が言われた時、このラザロを自分の命を捨てて愛して下さるという意味が込められています。そして実際にラザロを生き返らせた主が決定的な死刑の判決を受ける理由を得てしまった主の愛の物語です。 |
③ 死に終わらぬ私の死 |
細井宏一神学生から、順実さんに「赤ちゃん、生まれました!」と喜びの知らせを頂きました。順実さんの結婚式の司式をさせて頂いた私は、一人の命が新しく生まれた事を何より嬉しく思い、祝福しながら、この赤ちゃんが結婚式を祝う頃には私はたぶん生きていないだろうと思いました。他方で、同じ日、最愛の親を亡くして泣きながらふる里に帰った同信の姉妹を思いもしました。墓から呼び出されたラザロは死にましたが、彼の命が終わったわけではありません。「私は復活であり命である」と言われた主イエスが、そこにいて下さるからです。どんな運命が私たちを翻弄するか分からないけれど、それに捕らわれることなく、今生かされている場所で、自分自身に絶望する事なく、どんな時にも主が共にいてくださるとの確信が、私たちの真実の慰めとなりますように。私たちの目がいつも、濁った目が清められて澄んだ目になる事ができますように。その澄んだ目で自分自身だけではなく、共に生きる人々もまた主の御手の中にある事を見抜く事ができますように。その友のために命を捨てる。これほど大きな愛はない。それ故にあなた方はわたしの友として喜びをもって生きてほしい、そう語りかける主のみ声に聞き従って参りましょう! |
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