主日礼拝 説教抄録  2020年度
    
印刷用PDF


    聖霊降臨節第10主日礼拝 説教「真理と自由」

日本キリスト教団茅ケ崎堤伝道所
2020年8月2日

 ヨハネによる福音書8章31~38節

「真理と自由」 要約
① 「真理はあなたたちを自由にする」32節
 聖書では、主イエス・キリストにおいて示されている絶対者の意思や絶対者の御旨を「真理」と言っています。自分の考え、自分の学説、自分の主義主張、自分の決めていることなどを決して絶対化せず、それらを絶えず自己検証し、自己批判することを可能とする「判断の基準」や「規範」が聖書の言う「真理」です。そういう自己を否定する原理原則を内側に確立した人が、真に「成熟した人間」即ち信仰者なのです。即ち、誤ったものを絶対化するということから解放され自由になれるのです。自分の考えが絶対正しいと言える人は誰もいません。私たちにそのような構造、相互に承認し合える場があれば、「絶対者が誰か」という事がわかります。そういう場は礼拝を抜きにして考えられません。自分が相対的存在であることをチェックする機会はないのです。教会に集まって礼拝をするという事は、絶対者の前に出て、絶対者を絶対者として賛美し、絶対者の御旨がどこにあるかを聴く事です。私たちに語られる真理の言葉を礼拝において聴くのです。
「だれかの奴隷になったことはありません」33節
 ユダヤ人たちが「誰かの奴隷になったことはありません」と主張するのは嘘ではありません。政治的、経済的、或いはその他諸々の事情で確かに奴隷状態になりました。が、イスラエル民族の凄さ、ユダヤ人の物凄さというのは、どんなに国家規模で武力や経済力によって支配されようとも、どんな境遇に陥れられようとも、安息日を憶え、神礼拝を守るのです。できない時は隠れてもするのです。或いは心の中でするのです。これを守ってきました。即ち、この人たちは現代的な言葉で言うならば、思想・信教の自由を弾圧されても、自分たちはその自由を失わない民族であったのです。即ち、神礼拝をするという事が、自分たちは奴隷にならない、奴隷状態からの解放だと理解していたのです。国家権力で支配されようが、国土が占拠されようが、或いは経済的に不利益を被ろうが、現実には、ある時代は奴隷として差別や不利益を受けても、この人たちは自らを奴隷とは理解しなかったのです。この事は非常に大切な事です。
③ 真理と自由 
 ビクター・フランクルはアウシュビッツ収容所でガス室に送られる前に戦争が終わった為、自由になり、真理を持つ精神科医、更に牧師となりました。彼の著書『夜と霧』『死と愛』に収容所の体験が生々しく語られています。いつガス室に送られるか分からない恐怖の下で生きている時、「私は毎日毎時、死の恐怖にさらされていた。そして何らかの意味で私の死と私の味わっている苦悩は意味を持たねばならなかった。そこで私は天と契約を結んだ。もし私が死なねばならない運命なら、私の死は私がこの上なく愛する母に生きながらえる事を贈る。そして私の死まで苦悩を耐え忍べば忍ぶ程、私の母は苦しみのない死を迎える事ができる」。そういうロゴテラピーを編み出した人です。人間を生かすものは意味だ。自分の生涯に、苦しみや不幸、無意味に思われるものにさえ意味が見出せる時、人を生かす力になるというテラピーです。もしも私たちの生活の中に無意味としか言えない苦しみ、不幸が入って来た時、むしろ、それを自分の愛の材料にするという事が天(絶対者)との契約を結ぶ事になるかと思います。神は、小さい、取るに足りない、限界ある私たちを用いて、祝して、限りなく大きなものに増やし、豊かな実りを下さるお方です。

〒253-0006 神奈川県茅ケ崎市堤19-6
TEL/FAX 0467-54-1300
日本キリスト教団 茅ケ崎堤伝道所
牧師 三原 信惠
 更新:2020.8.1 by nk

Copyright 2010 Chigasaki Tutumi Dendosho  All Rights Reserved