主日礼拝 説教抄録  2020年度
    
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    聖霊降臨節第8主日礼拝 説教「イエスを審く者」

日本キリスト教団茅ケ崎堤伝道所
2020年7月19日

 ヨハネによる福音書7章40~52節

「イエスを審く者」 要約
① 素直さと尊大さ(45~49節)
 祭司長たちやファリサイ派の人々からイエスを捕縛するようにと命令されて遣わされた下役たちは、目的を果たさずに、手ぶらで帰って来ます。そして「なぜ、あの男を連れて来なかったか」と詰問されると「今まで、あの人のように話した人はいません」と答えます。下役たちが答えた言葉は、命令に従わなかった事の赦しを請うているのでもなければ、ひたすら弁解に努めているのでもありません。下役たちは、イエスを捕える事ができないのは当然だ。自分たちの生涯の中でこのような人は見た事がない。捕縛する事はおろか、この人の語られるのを聞くならば誰一人手をかける事はできないのではないでしょうか。という反論の響きを持っている言葉と言えます。主イエスに出会う者の最初に受ける一番素直な印象と反応ではないでしょうか。私たちが虚心であればあるほど、主イエスの御言葉と御業とは真直ぐに飛び込んでくるのです。あたかもアンデルセン童話の「裸の王様」で、目の曇っていない子供たちが「裸の王」を指摘したのと同じです。
貫けない勇気(50~52節)
 この時サンヒドリン(最高法院)の一人であったニコデモが発言します。ニコデモは『ヨハネ福音書』のみに記されている人物です(3:1,19:39)。ヨハネ福音書の著者は、ニコデモについて「彼らの中の一人で、以前イエスを訪ねたことのあるニコデモ」と説明しています。ニコデモは、「律法を知らない群衆」(49節)なる言葉を受けて、律法を知っている自分たちは律法に忠実に従って、人を断罪する時は、「まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめた上でなければ、判決を下してはならない」はずだと提案します。夜ひそかにイエスのもとを尋ね、「神からこられた教師」「神が共にいる」(3:2)イエスである事を告白しつつも、「霊によって新しく生まれる」事の真の意味が分からぬまま、主のもとを去ったニコデモとしては大層勇気ある発言です。彼はあの夜以来イエスの語られた事を反芻し、こだわり続けていたのでしょう。が、彼は、ファリサイ派の人々の反撃にあって沈黙してしまいます。残念ながら勇気を貫けませんでした。
③ イエスを審く者
 ファリサイ派の人々は自分が知っていることを誇りにし、そこに大きな価値を置いています。イエスの出身地を知っている。イエスが何者であるかを知っている。律法の教えを知っていると、公言する事によって相手を自分の支配下に置いて「律法を知らない」群衆を軽蔑します。彼らは知識に縛られる事によって真のイエスに出会う事がありませんでした。彼らから軽蔑されている人々の方が、イエスとの体験を通して、自分なりに考えて、「この人はメシアだ」と告白でき、又下役たちも「あの人のように話した人はいません」と判断できました。勿論、「メシアはガリラヤから出るだろうか」と、いぶかる人もいました。ニコデモも群衆も、イエスのすべてが分かったわけではありません。が、イエスに出会いました。イエスと出会うためには、「イエスを審く者」になってはなりません。最も大切な事は、自分自身が渇いている事に気づく事です。つまり、イエスを求める強い思いが必要だという事です。魂の渇きを覚える者がイエスの所で「生きた水」を飲む事ができるのです。生きた水とは聖霊です。聖霊を頂くと死に脅えなくなります。主の慰めの光が心の中まで飛び込んで来て、燦々と輝きます。私たちのさかしらな知恵を捨てましょう!

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日本キリスト教団 茅ケ崎堤伝道所
牧師 三原 信惠
 更新:2020.7.18 by nk

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