主日礼拝 説教抄録  2020年度
    
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    聖霊降臨節第7主日礼拝 説教「生きた水の流れ」

日本キリスト教団茅ケ崎堤伝道所
2020年7月12日

 ヨハネによる福音書7章37~39節

「生きた水の流れ」 要約
① 「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日」37節a
 仮庵祭は当初7日間でしたが、後に8日間に延長されました。8日目は律法の朗読などがあって、はなやかな祭儀はもう行われなかったので、これは第7日目の出来事と見なされます。祭りの期間、毎朝、祭司が黄金の桶にギホンの泉(シロアムの池)から水をとり、「水の門」と呼ばれる門を通って神殿に戻り、犠牲を捧げる祭壇に水を注ぐ儀式がありました。7日目には、祭壇を7周してから水を注ぐ慣わしでした。祭りは元来、収穫感謝の農耕儀礼でしたが、それにエジプトからの解放の記念の意味が加わり、更に又、終末の救いの待望という意義も含められ、ユダヤ人にとって重要な祭りであったのです。さて「イエスは立ち上がって大声で言われた」。通常イエスは座って教えられましたが、ここでは、水取りの行列に呼びかけるために立ち上がったとあります。ご自分の人格の真理を告知するために、み霊に満たされ、気迫を込めて、大きな声で語ったのです。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は」と。
「渇いている人は誰でも私の所に来て飲みなさい 
               私を信じる者は」37b~38節
 英語訳は「渇いている者は来るがよい。また飲むがよい。わたしを信じる者は」とあります。原文には句読点がない為、38節の「聖書に書いてあるとおり、その人の」という聖句についても、引照される聖書(旧約聖書)の推定箇所(エゼキエル47:1-、ゼカリヤ14:8、イザヤ58:11、エレミヤ31:12)の解釈に問題があります。38節の「その人」というのは、新共同訳では「わたしを信じる者、即ちキリスト者」と読むのが自然です。しかし、「彼」とか「その人」と呼ばれる方はもう一人おられます。主イエス・キリストです。「生きた水が川となって流れ出るようになる」存在とは、イエス・キリストそのものです。旧約において水は「霊の象徴」と見なされ、身体の中の渇く所(のど、魂、霊)を指示します。同時に旧約では霊と言葉は非常に深い関係を持ち、「祈りの言葉に霊を注ぎ出す」との表現があります。いずれも終末における神の救い、聖霊の注ぎの約束にかかわる言葉であって、イエスによってその約束が成就されるのを告げる事になるのです。
③ 生きた水の流れ
 39節は、地上のイエスではなく、十字架にかかり、復活、昇天されたキリストが、生ける水、霊の賜物を与え、教会を生かし、教会の中に永遠に生きたもう方<生きた水の流れ>であると告げています。「“霊”がまだ降っていなかった(まだなかった)」というのは、聖霊が実在しなかったというのではなく、人々に聖霊の働きが及んでいなかったという事です。イエスの上には聖霊が降っていたけれど、イエスに代わって働く聖霊は、まだ降っていなかったという事です。栄光の主、復活のキリストが弟子たちに、地上のイエスの言動の本当の意味を、今一度、正しくとらえ直させ、その教えを思い起こさせているのです。私たちは、神が与えて下さっている恵みの豊かさをしばしば忘れます。そのためにまだ渇いていると思ってしまいます。まだ飢えているように思ってしまいます。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」と言って下さる主の御言葉をハッキリ聴き取って、主の所に赴きましょう!いや、イエスの方が私たちの所に来て下さっている事に気づきましょう!尚、うろたえるかも知れません。嘆くかも知れません。しかし、常に主に向かい続け、主のもとに帰り続けることができますように日々祈りましょう!

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日本キリスト教団 茅ケ崎堤伝道所
牧師 三原 信惠
 更新:2020.7.11 by nk

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