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三位一体主日礼拝 説教「父は農夫である」
日本キリスト教団茅ケ崎堤伝道所
2020年6月7日
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ヨハネによる福音書15章1~11節
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「父は農夫である」 要約
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① 「わたしはぶどうの木」(1節) |
ぶどうの木はぶどう畑と共に旧約聖書において神の民イスラエルの比喩として屡、用いられています。ぶどうの木を栽培する時に、特に注意すべきことは剪定であり、念入りな整備です。ぶどうの剪定は結実期の終わり頃に行われ、冬は幹とごく少数の枝だけになってしまいます。また、ぶどうの若木は植えてから三年間は実を結ぶことが許されず、徹底的に刈り込まれることによって命を貯え、良い実を結ぶように準備されました。従って、実のならない枝は切り捨てられ、実のなる枝は徹底的に保護されるのです。主イエスは「わたしはまことのぶどうの木」という宣言に続いてすぐ、「実を結ばない者は神の裁きの下にある」と厳しい警告をなさったのは、イスカリオテのユダの堕罪と運命を示されたのでしょう。彼は主に選ばれ、主の中に生きる事を許されたにも拘らず、主に逆らい、自らその命を断つ道を歩みました。これも「私につながっている枝」とされているにも拘らず、ユダは実を結ばないで神の裁きの下にあったという事を示しています。 |
② 「わたしにつながっていなさい」(4節) |
イエスは「私はまことのぶどうの木であり、父は農夫、あなた方は枝である」と語られました。父なる神、子なるイエス・キリスト、そしてキリスト者の関係がここに明らかにされています。この関係は「つながっている」という語によって結ばれています。この原語「メノー」は「つながる」「とどまる」「…にある」「宿る」の意味を持つ語であり、新約聖書には120回ほど用いられ、そのうち41回は『ヨハネ福音書』に出てきます。動かされないでシッカリと留まっている場、それはまことのぶどうの木なるイエスです。人がどこかに留まり、つながるのは信頼があるからです。だからこの勧めは「信頼にとどまれ」という主の命令であり呼びかけです。枝は幹と根から発する生命力、樹液によって伸びもし、生きもします。樹液が溢れ出る時、枝は繁り、途絶える時、枝は枯れます。という事は、枝である私たちは、自らの力で立ち、育ち、生きるのではないという事です。しかしながら私たちは屡、自分を頼り、自己の力で生きようとしています。 |
③ 父は農夫である |
自分を頼り、人間の力と頭脳に望みをかけ、自己の意志により頼んで生きようと頑張る者たちに「あなた方は私の枝ですよ」。あなたが幹なるキリストに支えられ、守られ、生かされている事を自覚的に、感謝を持って告白するなら、また「私は、キリストからもう決して離れません」という静かな、しかし強い決意が生み出されるなら、あなたは豊かに実を結ぶというのです。主は言います。「私の父は農夫である」。「ぶどうの木はイエス」であり、そこから生え出る「若枝は弟子たち」です。そして、イエスにつながって生きる者、即ち、今ここに座しているあなた方お一人一人です。弟子たちから生じる「実り」とは、弟子たちが神に導く人間たちです。彼らの奉仕によって神に招かれる教会です。これこそが、ぶどうの蔓に生じる実りです。イエスの父は、そのような生命共同体なる「ぶどうの木」の所有者であり、その生育を自由に成し得る栽培者であり、審判者でもあります。「実を結ばない者は、神の裁きの下にある」という<愛のいましめ>のすぐ後に、「あなた方は既にきよくされている」という主の慰めと励ましの言葉が続きます。神がイエスを愛し、イエスが弟子たちを愛する。キリストにある者の美事な一体関係をなしています。
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