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復活節第7主日礼拝 説教 「生きた信仰」
日本キリスト教団茅ケ崎堤伝道所
2020年5月24日
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ヨハネによる福音書14章1~14節
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「生きた信仰」 要約
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① 心を騒がせるな。神を信じなさい。私を信じなさい |
ヨハネ福音書の中で14章から16章までが、イエスが弟子たちと共に過越の晩餐をされた時に残していかれた貴い遺言にあたる箇所です。13章からの続きで「ユダが出て行った」後、騒然となる弟子たちに主は、「心を騒がせるな」と言われます。この言葉は安心して静かにしていればよいという事ではありません。様々な方向に乱れた思いをそのままにして、ただうまくまとめて調和させていくという事でもありません。「騒ぐ必要がない」という意味です。主は心を騒がせている11人を突き放して否定的なまなざしで語っているのではありません。主と離れる事にとまどいを覚え、自分の生きる基盤を失い、「もう生きられない」と思う弟子たちの思いを十分に察し、その心に触れつつ、「あなたの住まいはある」「生きることが可能になっている」と語っています。自らを肯定して受け入れる時、信じる人間として歩む基盤を見出すのです。神を信じましよう!主を信じましょう!主はいつも主を自分の師と信じる者の目標であり、信仰の対象であるのです。 |
② 私は道である |
主イエスは「私は道である」と仰いました。これは、キリストを信じる者がその道を通って天国に導かれるという意味です。そしてその道は、罪からの解放であるという事、絶望に陥るしかない私たちの罪を主が代わって十字架にかかり、流された血潮と裂かれた肉によって贖われたという事実を信じる信仰によって、私たちの救いが達成されるという事を、ここで「私は道である」という言葉で現わしているのです。十字架の死によって陰府に下られた主は、復活の御業によって新しい信仰の力と希望を与えて下さり、そしてまた聖霊を降して下さって、「イエスをキリストと信じる者はすべて救われる」という驚くべき福音を残して下さいました。私たちキリスト者の神信仰は、主イエスをキリスト、救い主と信じる信仰に他なりません。そうしてキリストを通して、私たちは自分の人間としての故郷に至る道を見出すのです。「私は道であり、真理であり、命である」という主の言葉が示すように、死んでも生きる「永遠の命」に与らせて頂けるのです。 |
③ 生きた信仰 |
信仰を持つというのは「有りて有る神」「かつてあり、今もあり、未来もある存在」の<もと>に導かれる事です。<もと>と言うのは<ふるさと>です。聖書の言葉で言うと、「私の家には、住む所がたくさんある」私たちの<ふるさと>です。私たちの<ふるさと>というのは、人間が本来帰るべき場所です。人間は神からの離反、神から逃亡することによって、帰るべき場所を失いました。自分の帰るべき場所を持たないので、人間存在の不安を感じるのです。「あなた方一人一人は神に帰属する存在として、この世に生を受けている。あなたの<ふるさと>は主イエスが示された父なる神のもとにある」というのが、6節の「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行く事ができない」という主イエスの言葉が示しているメッセージです。私たちが帰るべき場所は主イエス・キリストが備えておられる所です。地上を歩む神としての主イエス・キリストの振舞い<教えと業>を、神の業であると信じましょう!そうすれば、私たちは立つ事ができます。そこで私たちが成し得る「最も大きな業」が可能になります。神の大きな業が私たちの小さな業を大きくします。これこそ、「生きた信仰」の証しとなるのです。
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