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復活節第4主日礼拝 説教 「ペトロへの命令」
日本キリスト教団茅ケ崎堤伝道所
2020年5月3日
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ヨハネによる福音書21章15~19節
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「ペトロへの命令」 要約
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① ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか |
復活されたキリストはガリラヤ湖畔で弟子たちに現れ、特にシモン・ペトロに、三度も同じ言葉で「わたしを愛するか」と尋ねられ、また同じように「わたしの小羊を飼いなさい」「わたしの羊の世話をしなさい」「わたしの羊を飼いなさい」と命じられました。ここで心引かれるのは、主イエスがペトロに向かって「ヨハネの子シモン」(21:15)と、主イエスの弟子になる前の名前で呼び、彼に語りかけておられる事です。これは選ばれ、召された当時を思い出させる呼びかけです。ポール・トゥルニエは『名前と命』の中で、「名前は人格である」と繰り返し、人は名前で呼ばれる事で他人と区別されるが同時に名前で呼ばれる事によって他人と自分が結びつけられる。人は、呼ばれる事によって人間としてつくられる。人間の独特な価値と尊厳は、神が対話の相手として語りかけて下さる事によってつくられる、と述べています。ペトロに語りかけられた主は、今、神の前に礼拝を捧げる一人一人の名前を呼んで「わたしを愛するか」と語りかけておられます。 |
② 漁師から羊飼いへ |
主イエスは漁師であったペトロに向かって「羊飼いになれ、商売替えをせよ」と命じておられます。ペトロは、自分で自分の人生を選んで生きてきた人間です。選ばれて主イエスの弟子になったとはいえ、しばしば自分の判断を優先し、主がどうおっしゃるかと言う事よりも、自分がどうしたいのか、自分の思いにこだわってきた人間です。一時的には熱して「あなたのためなら命を捨てます」と大見得を切りながら、すぐその後で我が身かわいさのあまり逃げ出すような人間でもあります。「自分で帯を締めて、行きたい所へ行っていた」ような、「出来の悪い羊」、「わがままな羊」、「熱しやすく冷めやすい羊」を抱えながら、羊飼いである主イエスは我が身を捨てて羊を守って下さいました。ここでは、その「羊」であったペトロ自身が、主イエスのような「羊飼い」になることを命じられているのです。自分が「羊」だった時に味わった主イエスの御心を今度は自らが「羊飼い」として働く事によってペトロは思い計らねばならないのだという事です。。 |
③ ペトロへの命令 |
ペトロへの命令は、私たちへの命令でもあります。「子を持って知る親の恩」と言いますが、「羊飼い」になってみて分かる「キリストの心」があります。「羊」である事と「羊飼い」である事とは、私たちが深く味わい知るべき二つの面であり、味わい知れば知る程、自分の無力さを思い知らされると共に、いよいよ主の恵みに感謝を新たにする機会となります。そしていよいよ真剣に「主よ、あなたは何もかもご存知です」と告白し、主の赦しと支えを祈り求めながら歩み続けていくことになるのです。私たちは「主の羊」として養われつつ、「主の羊を養う者」として、互いに互いを配慮し合い、支え合い、導き合って、生きていかねばなりません。ペトロだけが特別だったのではないのです。私たち一人一人が主の前では「主の羊」であり、大切な掛け替えのない人間です。大切な事は、主イエスの前で自分がそれ程までに大切な人間として取り扱われているという事実であり、同時に、自分の周りにいる人も又、主イエスにとって掛け替えのない特別な人間、即ち「主の羊」だという事実です。ペトロに告げられた命令の内容は「愛神愛隣」の示しでもあります。その示しに応じる備えを、私もあなたも常に整えつつ、ご一緒して参りましょう!
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