主日礼拝 説教抄録  2019年度
    
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受難節第5主日礼拝 説教 「彼らはその時、知らなかった」

日本キリスト教団茅ケ崎堤伝道所
2020年3月29日

   ヨハネによる福音書18章38(b)~19章16(a)節


「彼らはその時、知らなかった」 要約
① 『讃美歌21』304番
 受難週の金曜日、主イエスが十字架につけられる直前、ローマの兵士たちが主に茨の冠をかぶせ、「王」の格好をさせた上で、主イエスを侮辱したという話は、マタイ福音書、マルコ福音書、ヨハネ福音書に伝えられています。このうちヨハネ福音書とマルコ福音書によれば、主は「紫の服」を着せられたとありますが、マタイ福音書では、それは「赤の外套」だったと伝えています。いずれにしても、「ユダヤ人の王」と自称したという名目で訴えられた主イエスに対して、ローマ兵たちはあえてそのような服装をさせ、「王」に見立てて、主を笑いものとし、また打ったり叩いたりして暴行を加えたのです。『讃美歌21』304番はこの場面をとらえ、彼らは「その時、知らなかった」自分たちが十字架につけ殺そうとしている男が一体何者なのかという事を歌います。そして各節毎に、彼らは「その時、知らなかった」と繰り返し歌います。この方こそ、「真理」であり、真の「王」であり、神によって真の「権限」を与えられた方であると歌っているのです。
② 「見よ、この男だ」(5節)、「十字架につけろ」(6節)
 5節「見よ、この男だ」とは、「エッケ ホモ、この男を見よ、この人を見よ」という意味の言葉です。ご存知の讃美歌21-280番(馬ぶねの中に)作詞者 由木康は各節毎に「この人を見よ」と繰返しています。真の「王」であり、神によって真の「権限」を与えられた方です。この方に人々は叫びます。「十字架につけろ」。ピラトは言います「あなたたちが十字架につけよ。私はこの男に罪を見出せない」。ユダヤ人たちは答えます「律法によれば、この男は死罪に当たります。神の子と自称したからです」。この対話の中に、夫々の人間の身勝手さ見苦しさが見えます。二種類の醜い人間のエゴの間、主ただ一人毅然と立っておられます。こうした姿こそ、人間の持つ罪深さを露わにされる「真理」の姿です。この後、再びピラトは主を尋問し、沈黙を守る「この男」に「お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、この私にあることを知らないのか」と、彼の本性を表わします。ピラトは、ローマ皇帝から与えられた権限に寄り頼んで生きる人間であったのです。
③ 彼らはその時、知らなかった
 ここで問われているのは、ポンティオ・ピラトのみでなく、すべての時代の人間、とりわけ私たちキリスト者の人生の根拠に関わる問題です。ここで正に私たち自身に問われているのです。人間的な権威に、人間的な打算や妥協や取引。それが主イエス・キリストを殺したのです。が、ピラトはその時、知りませんでした。彼が自分を守るために、「神の子」を殺したということを。彼はその時、知りませんでした。そうする事によって、彼が「真理」を否定したということを。そして、彼はその時、知りませんでした。そうする事によって、彼自身の人生を偽りに満ちたものにした事を。私たちは、神と人とに兼ね仕えることはできません。私たちは、神に権威を置いて生きるのか、人間の権威に寄り頼んで生きるのか、どちらか一つを選ばなければなりません。この二者択一こそ、私たちが人生を生きる上で、真っ先にしなければならない決断であり、繰り返し、問われ続ける根本的な課題なのです。神の「真理」である主イエス・キリストが茨の冠をかぶせられ、人間の嘲りと暴力を受けつつ、ピラトとユダヤ人の前に立ち、そして、私たちの前に立って、この問いを静かに問い続けておられるという事を、私たちは知らなければなりません。

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日本キリスト教団 茅ケ崎堤伝道所
牧師 三原 信惠
 更新:2020.3.29 nk


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